5「沖田畷の戦い

耳川の戦いで大友氏が衰退すると、肥前国龍造寺隆信が台頭してきた。龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信八代にいた義弘・家久に援軍を要請してきた。

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国戦国大名

仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。

「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。

龍造寺氏の出自については諸説があるが、本姓藤原氏秀郷流と称す。

家督相続

享禄2年(1529年)2月15日、龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男として肥前佐嘉郡水ヶ江城の東館天神屋敷で誕生。

幼少期は宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて養育された。天文5年(1536年)、7歳のときに出家して寺僧となり、中納言房あるいは中将を称し、法名を円月(圓月)とした。円月は、12、13歳の頃より、20歳くらいの知識があり、腕力も抜群であったとされる。

まだ15歳の僧侶であった頃、宝琳院の同僚が付近の領民と諍いを起こし、院内へ逃げ込み門戸を閉ざしていた。これを領民6、7人がこじ開けようとしていたのを円月が一人押さえていたが、力余って扉が外れ、領民4、5人がその下敷きになった。領民は恐れをなして逃げ帰ったという。

天文14年(1545年)、祖父・龍造寺家純と父・周家が、主君である少弐氏に対する謀反の嫌疑をかけられ、少弐氏重臣の馬場頼周によって誅殺された。円月は、曽祖父の家兼に連れられて筑後国蒲池氏の下へ脱出した。

天文15年(1546年)、家兼は蒲池鑑盛の援助を受けて挙兵し、馬場頼周を討って龍造寺氏を再興するが、その一年後に家兼は高齢と病のために死去した。家兼は円月の器量を見抜いて、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継ぐようにと遺言を残した。それに従って翌年、円月は、重臣石井兼清の先導で、兼清の屋敷に入り、還俗して胤信を名乗り、水ヶ江龍造寺氏の家督を継ぐことになった。

しかし胤信が水ヶ江家の家督を相続するに及んでは一族・老臣らの意見は割れた。そこで八幡宮に詣でてを三度引き神意を問うたが、籤は三度とも胤信を選んだため、家督相続が決定したという。

その後、龍造寺本家の当主・胤栄に従い、天文16年(1547年)には胤栄の命令で主筋に当たる少弐冬尚を攻め、勢福寺城から追放した。天文17年(1548年)、胤栄が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り、本家(村中龍造寺)の家督も継承した。

しかし胤信の家督乗っ取りに不満を持つ綾部鎮幸等の家臣らも少なくなく、胤信はこれを抑えるために当時西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、翌天文19年(1550年)には義隆から山城守を敷奏され、さらに実名の一字を与えられて7月1日隆胤と改め、ついで同月19日隆信と名乗った。隆信は大内氏の力を背景に家臣らの不満を抑え込んだ。

また、同年、祖父・家純の娘である重臣・鍋島清房の正室が死去すると、隆信の母・慶誾尼は、清房とその子・直茂は当家に欠かすことができない逸材として、押し掛ける形で後室に入って親戚とした。

肥前統一

天文20年(1551年)、大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により死去する(大寧寺の変)と、後ろ盾を失った隆信は、(密かに大友氏に通じて)龍造寺鑑兼を龍造寺当主に擁立せんと謀った家臣・土橋栄益らによって肥前を追われ、筑後に逃れて、再び柳川城主の蒲池鑑盛の下に身を寄せた。

天文22年(1553年)、蒲池氏の援助の下に挙兵して勝利し、肥前の奪還を果たす。その際に小田政光が恭順し、土橋栄益は捕えられて処刑され[20]、龍造寺鑑兼は隆信正室の兄であり佐嘉郡に帰らせて所領を与えた。

その後は勢力拡大に奔走し、永禄2年(1559年)にはかつての主家であった少弐氏を攻め、勢福寺城で少弐冬尚を自害に追い込んで大名としての少弐氏を完全に滅ぼした。

また、江上氏や犬塚氏などの肥前の国人を次々と降し、永禄3年(1560年)には千葉胤頼を攻め滅ぼしている。さらに少弐氏旧臣の馬場氏、横岳氏なども下し、永禄4年(1561年)には川上峡合戦神代勝利を破り[21]。永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立した。

このような急速な勢力拡大は近隣の有馬氏大村氏などの諸大名を震撼させ、永禄6年(1563年)に両家は連合して東肥前に侵攻するが、隆信は千葉胤連と同盟を結んでこの連合軍を破った(丹坂峠の戦い)。

これにより南肥前にも勢威が及ぶようになったため、今度は豊後国大友宗麟が隆信を危険視し、少弐氏の生き残りである少弐政興を支援し、これに馬場氏横岳氏ら少弐氏旧臣が加わって隆信に対抗する。

永禄12年(1569年)には宗麟自らが大軍を率いて肥前侵攻を行なうが、毛利元就豊前国に侵攻してきたため、宗麟は肥前から撤退した(多布施口の戦い)。その後、元就を破った宗麟は、元亀元年(1570年)に弟の大友親貞を総大将とする3千の軍を組織し、肥前に侵攻させる。しかし隆信はこれを鍋島信生(後の鍋島直茂)による奇襲策によって撃退した。

その後、大友氏と有利な和睦を結ぶことに成功したが、隆信は今山の戦いで勝利は収めたものの、局地的な勝利に過ぎなかったので、この時点で大友氏の肥前支配を排除できなかった。今山の戦い以降も、大友氏が軍勢動員の触れを隆信に送って、また子・政家が大友宗麟(義鎮)から偏諱(「鎮」の字)を賜って一時期「鎮賢」(しげとも)と名乗っている。隆信が周辺の国人を滅ぼしたり、従属させるたびに宗麟から詰問の使者が来ていたが、結局既得権として切り取った領土を認められ、耳川の戦いまでに確実に領土を広げ、力を蓄えていた。