4「耳川の戦い

伊東義祐が亡命したことにより大友宗麟が天正6年(1578年)10月、大軍を率いて日向国に侵攻してきた。

宗麟は務志賀(延岡市無鹿)に止まり、田原紹忍が総大将となり、田北鎮周佐伯宗天ら4万3千を率いて、戦いの指揮を取ることになった。島津軍は山田有信高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向国に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は3千余人となった。大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いた。

11月、義久は2万余人の軍勢を率いて出陣し、佐土原に着陣した。島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。大友軍は宗麟がいないこともあり、団結力に欠けていた。

大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。無秩序に攻めてくる大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と繰り出して壊滅させた。

島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め2千から3千の首級を挙げた(耳川の戦い)。

耳川の戦い(みみかわのたたかい)は、天正6年(1578年)、九州制覇を狙う豊後国大友宗麟薩摩国島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。「高城川の戦い」、「高城川原の戦い」ともいう。

天正年間以前の大友・島津の関係

(南九州)の支配者である島津氏(北九州)の支配者である大友氏の関係は長い間良好であった。島津氏と日向の伊東氏との対立においても永正年間以来、大友氏が度々島津氏に有利な条件での仲介に乗り出しており、お互いの勢力圏には干渉しあわない事実上の同盟関係にあった。国内情勢が不安定な状態が続いた島津氏にとっては自国の安全を保つ上で大友氏との関係は重要であり、明などとの対外交易に関心を有していた大友氏にとっても海上での船舶の安全を図る上で島津氏との関係が重要であったからである。

実際、島津領内に漂着した大友氏の船の扱いを巡って天正元年(1573年)8月25日付で大友氏の加判衆(田原親賢臼杵鑑速志賀親度佐伯惟教)から島津氏の老中(川上忠克島津季久村田経定伊集院久信平田昌宗伊集院忠金)に充てた連署状には両家の関係を「貴家(島津氏)当方(大友氏)代々披得御意候」と表現し、反対に9月に島津側の川上・村田・伊集院忠金から大友氏側に充てられた返書にも両家が「御堅盟」の関係である事が記されており、両家の関係が同盟関係であったことを示している。

また、永禄3年(1560年)に室町幕府将軍足利義輝が島津氏と伊東氏の対立の仲裁にあたった時も、島津貴久は義輝の使者である伊勢貞孝政所執事)に対して大友氏を加えた和平であれば受け入れると回答したと、島津氏の家臣の樺山善久が書き残している。この同盟関係の結果、島津氏は薩摩・大隅・日向の統一事業に専念することができ、大友氏も北九州での戦いの最中に島津氏や伊東氏に背後を突かれる不安を解消できたと考えられる。

合戦の背景と概要

大友家の日向侵攻

ところが、天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津氏に敗北。日向を追われ、大友氏に身を寄せた。大友宗麟は伊東家主従に300町を与えて庇護した。また伊東家の旧臣であり島津家に降伏した門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が大友家の重臣佐伯紀伊入道宗天に日向侵攻時の先導役を申し出た。

 こうした状況の中、天正6年(1578年)に入ると、大友宗麟・義統は島津氏の北上に対抗して伊東氏を日向に復帰させるために3万とも4万ともいわれる軍を率いて日向への遠征を決定する。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝朽網鑑康一萬田鑑実らが肥後口を、大友宗麟親子は豊後口を担当した。天正6年(1578年)2月21日大友軍の先鋒は日向国門川城に入った。豊後に亡命していた伊東家の家臣団も先鋒に加わり日向の国衆へ調略を行った。伊東家旧臣長倉佑政は耳川を越えて島津家の勢力圏に侵入、石ノ城で挙兵をした。

それに呼応して内応を約束していた米良四郎右衛門、右松四郎左衛門、米良喜内が挙兵し島津方の縣城主土持親成を攻めた。3月18日には佐伯入道、田原親賢田北鎮周らが土持親成攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成は松尾城に籠城したが、4月15日に陥落し行縢への撤退中に捕らえられ斬殺された。大友軍は耳川以北の日向制圧に成功し、島津家の勢力は耳川以南に後退した。一方島津義久は6月に島津忠長ら7000の軍を日向へと派遣、長倉佑政ら伊東家の残党が籠る石ノ城攻めを命じた。

島津軍は7月8日に総攻撃を開始したが500人以上の死傷者をだして撃退され、日向佐土原へと撤退した。大友義統は石ノ城籠城軍に手紙を送り、勝利をねぎらっている。大友軍は土持領への侵攻時、領内の寺社仏閣を徹底的に破壊している。その背景にはキリシタンだった宗麟の意向が影響している。

一説によると宗麟は日向でキリシタン王国の建設をめざしたという。宗麟のキリスト教への傾倒は家臣団との間に不協和を生じさせた。宗麟は8月に宣教師とともに日向国に入り、無鹿に本営を置いた。

島津家の反撃

島津義久は大友家との決戦に専念するため伊東家残党の掃討を開始した。島津征久らの諸将が8月に伊東家残党の籠る日向国上野城と隈城を攻撃、9月に両城を攻略している。上野城攻略から4日後、将軍足利義昭の使者が島津家の下を訪れた。大友氏は北九州を巡って毛利氏と攻防を続けていたが、その毛利氏には織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭が亡命していた(鞆幕府)。毛利氏が上洛に踏み切らないのは大友氏が背後を脅かしているからだと考えた足利義昭は、9月に島津氏に大友領に侵攻して大友氏の毛利領侵攻を止めさせるように命じる御内書を出した。これを受けた島津義久も御内書を大義名分として更なる北上を決定する。

義久は島津征久ら1万の軍を北上させ再び石ノ城を攻撃した。攻城戦は9月19日から開始されたが、29日には島津方の猛攻に屈し籠城軍が講和を申し出た。島津軍は城兵の生命を保証し、長倉佑政は石ノ城を明け渡すと豊後へと撤退した。