13「死後と神格化

弘仁2年(811年)5月27日に大舎人頭・藤原縵麻呂と治部少輔・秋篠全継が田村麻呂宅に派遣され、天皇の宣命を代読して大納言・田村麻呂に従二位が贈られた。葬儀が同日に営まれ、山城国宇治郡来栖村水陸田三町を墓地として賜わって、甲冑兵仗弓箭を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けを立つように埋葬された。

もし国家に非常時があれば田村麻呂の塚墓はあたかも鼓を打ち、あるいは雷電が鳴る。以後、将軍の職に就いて出征する時はまず田村麻呂の墓に詣でて誓い、加護を祈るとされた。現在、京都市山科区西野山古墓が田村麻呂の墓所として推定されている。

弘仁3年(812年)正月、 嵯峨天皇の勅令によって、鈴鹿峠の二子の峰に田村麻呂を祀る祭壇が設けられた。弘仁13(822年)4月8日には土山倭姫命を祀る高座大明神の傍らにも田村麻呂を祀る一社を建て、併せて高座田村大明神(現在の田村神社)と称した。

公卿補任』に「毘沙門天の化身、来りてわが国を護ると云々」と記され、生前から毘沙門天の化身として評価されたことから伝説上の人物・坂上田村麻呂として語り継がれていく。

人物

古代の人物のため史料は無いに等しいが『田邑麻呂傳記』や『田村麻呂薨伝』に僅かながらも残されている。

「大将軍は身の丈5尺8寸(約176㎝)、胸の厚さ1尺2寸(約36㎝)。向かいに立つと仰け反って視え、背後からみると屈んでいるように視える」と堂々たる容姿であった。

容貌は「目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っている。重い時は201斤(約120㎏)、軽いときには64斤(約38㎏)のように行動は機敏であり、立ち振舞いは理にかなう。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」という。

器量についても「真心は面に顕われ、 桃花は春ならずして常に紅い。 生まれながらに勁節(強い意思)を持ち、 松の色は冬を送りてただ翠なり」と誠実さや高潔な品性を称えられ、「策は本陣でめぐらせ、勝ちを決するのは千里の外であった。華夏に学門を学び、張将軍のように武略があり、 簫相國のように奇謀があった」と田村麻呂の武芸にも賛辞が贈られている。

信仰

田村麻呂は「清水の舞台」で有名な京都府京都市東山区にある清水寺を建立した事でも有名である。建立の由来を述べる縁起類にも異本が多くあり、内容は必ずしも同一ではない。

建立の時期について宝亀11年(780年)とするもの、延暦17年(798年)とするものに大別される。

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。

清水寺は、子嶋寺二世延鎮と田村麻呂により子嶋寺の支坊として開かれた。延暦24年(805年)には太政官符により田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇宸筆の勅許を得て寺印一面を賜って公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。

また、北観音寺に対して子嶋寺は「南観音寺」とも呼ばれた。

征夷大将軍

延暦16年、延暦23年と生涯で2度の征夷大将軍に任命されている。2度目は還任するものの、藤原緒嗣の議により「軍事と造作」が停止されたため出征していないにも関わらず、その後も本来は臨時の官職である征夷大将軍であり続けたと思われる。

藤原 緒嗣(ふじわら の おつぐ)は平安時代の政治家。藤原式家参議藤原百川の長男。官位正二位左大臣従一位山本大臣と号す。

生い立ち[編集]

父・百川は光仁桓武の2代の天皇の擁立に活躍したが、緒嗣が5歳の時に参議在任中に病死。父の早逝は本来であれば緒嗣の出世にとっては致命的な影響を及ぼすところであった。

しかしながら、百川の生前の働きに感謝する桓武天皇によって常に気を掛けられており、延暦7年(788年)桓武天皇自らの主催によって宮中で緒嗣の元服の儀が行われ、天皇の手による加冠と剣の賜与、正六位上内舎人への叙任、封戸150戸の賜与という厚遇を受けた。

延暦10年(791年)には従五位下に叙せられて一人前の貴族として扱われる事になった。

その後延暦16年(797年)24歳で正五位下に昇進すると、わずか2日後には従四位下へ昇叙と事実上4階級昇進し、衛門督に任ぜられるなど、これまでの昇進の記録を次々と破る結果を残す(詳しくは別記)。

ついには、延暦21年(802年)29歳の若さで父・百川と同じ参議に昇進し公卿に列した。これは生前に百川へ十分報いる事の出来なかった桓武天皇からの恩返しであると同時に、緒嗣の才能に期待をかけた人事である。

だが、緒嗣はその3年後に天皇の思いもよらなかった形でその期待に応える事になる。

徳政論争

延暦24年(805年)12月7日(旧暦)、緒嗣と同僚の参議・菅野真道は桓武天皇より現在の政治の問題点について質問を受けた。

緒嗣は開口一番「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作なり。此の両事を停むれば百姓安んぜん(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷平定と平安京の建設です。

この二つを止めればみんな安心します)」と述べた。長年天皇に仕え、身分の低い学者から抜擢を受けた老齢の真道は天皇の意向を汲んで必死に反論をしたものの、ついに天皇は緒嗣の主張を受け入れてライフワークとも呼ぶべき事業である、蝦夷平定と平安京の建設の中止を宣言した(「徳政論争」)。なお、桓武天皇は翌年に崩御した。