同月11日には、諸国等10ヵ国の浪人4000人を陸奥国胆沢城の周辺に移住させることが勅によって命じられている。かつては胆沢城の造営について、墓公阿弖利爲らを降伏に追い込む契機となった出来事ではないかと指摘されてきた。

阿弖流爲(あてるい)、または大墓公阿弖利爲(たも の きみ あてりい、? - 延暦21年8月13日ユリウス暦802年9月13日先発グレゴリオ暦802年9月17日))は、奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。

8世紀末から9世紀初頭に陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長で、古代日本律令国家朝廷)による延暦八年の征夷のうち巣伏の戦いにおいて紀古佐美率いる官軍(朝廷軍)の記録中にはじめて名前がみえ、延暦二十年の征夷ののち胆沢城造営中の坂上田村麻呂に自ら降伏した。

その後は平安京付近へと向かったものの、田村麻呂が陸奥へと返すよう申し出るが、京の公卿達の反対により盤具公母禮とともに河内国椙山で斬られた。

大墓公阿弖利爲は、古代日本の律令国家から「水陸万頃にして、蝦虜、生を存す」、「賊奴の奥区なり」と呼ばれた、現在の岩手県南部、衣川以北の北上川流域の平野部、磐井郡江刺郡胆沢郡一帯に勢力を持っていたと考えられる胆沢の蝦夷(えみし)の族長である。

名前は古代日本の律令国家が編纂した六国史に4度見える。内訳は「阿弖流爲」で1回、「大墓公阿弖利爲」で2回、「大墓公」で1回見える。

日本紀略』には「夷大墓公阿弖利爲」とあり、田村麻呂の許へと帰降した直後の記事のため大墓公のは降服後に国家により賜与されたものとみる見解もある。

しかしながら、結果として河内国椙山で斬られたことからみても、国家が帰服したアテルイにわざわざ姓を与えたとは考えがたく、国家に従った蝦夷族長が離反した際に姓を剥奪された例もいくつかみられることより、大墓公の姓はアテルイらの一族が官軍と戦うよりも前に国家から賜与されていたものと考えるべきである。

大墓公一族がかつては律令国家との間にかなり良好な政治的関係を築いていたことを示すひとつの重要な手がかりでもある。

大墓公」を文字通り大きな墓の意味であると解釈し、胆沢地方に所在する角塚古墳の被葬者一族の系譜を引くものと認定されたため、この姓が与えられたとみて「おおつかのきみ」「おおはかのきみ」などと読む見解がある。

しかし「大墓」の字で表されるものは蝦夷居住地域の地名であるため、和語として意味を持つ訓読は避けるべきである。

また、奥州市水沢羽田町田茂山の字名が遺っており、延暦8年(789年)の胆沢合戦でアテルイ率いる胆沢蝦夷軍が官軍に奇襲作戦を仕掛けた地点でもあり、田茂山を「大墓」の遺称地として「たも」と読む見解がある。

現在は後者の田茂山説を採用する研究者が最も多い。いずれにせよ「大墓公」の解釈は推測の域を出ない。

岩手県奥州市江刺に大萬館・小萬館とよばれる館跡があることから関連付けられ、大公阿弖利爲は大公阿弖利爲の誤記ではないかとする説や、また跡呂井という地名と関連付けられることもあるが、これらの説について高橋崇は安易に類似の地名を求め、正史の転写次第での誤記とする考え方は危険であるとしている。

生涯

日付は和暦による旧暦西暦表記の部分はユリウス暦とする。

蝦夷側で記した史料は残っておらず、古代日本の律令国家が編纂した六国史と称される正史のうち『続日本紀』で1箇所、『日本後紀』で3箇所にアテルイの名前が伝えられている。

巣伏の戦い

詳細は「巣伏の戦い」を参照

延暦八年の征夷がおこると、朝廷軍は延暦8年3月9日789年4月8日)に多賀城から進軍を始め、延暦8年3月28日(789年4月22日)に「陸道」を進軍する2、3万人ほどの軍勢が衣川に軍営を置いた。

征東将軍紀古佐美4月6日5月5日)付の奏状で衣川に軍営を置いたことを長岡京へと報告するが、その後30日余りが経過しても戦況報告がないことを怪しんだ桓武天皇は延暦8年5月12日(789年6月9日)に衣川営に長期間逗留している理由と、蝦夷側の消息を報告せよと勅を発した。

衣川営での逗留を責める桓武天皇からの勅が陸奥へと届けられたと思われる延暦8年5月19日(789年6月16日)頃、古佐美は進軍するよう命じた。

5月下旬から末頃、中・後軍より各2000人ずつ選抜された計4000人の軍兵が、衣川営を出発後、北上川本流を渡河して東岸に沿って北進、阿弖流爲の居宅やや手前の地点で蝦夷軍300人程と交戦した。蝦夷軍は北へと退却したため、朝廷軍はこれを追いつつ途上の村々を焼き払いながら北上し、前軍との合流地点であったらしい巣伏村を目指した。

しかし前方から800人ほどの蝦夷軍が現れて朝廷軍を押し戻すと、東の山上に潜んでいた400人ほどの蝦夷軍が朝廷軍の後ろへとまわって退路を絶ち、川と山に挟まれた狭い場所に追い込まれた朝廷軍は蝦夷軍に翻弄されて総崩れとなった。

朝廷軍の損害は戦闘による死者25人、矢疵を負った負傷者245人、溺死者1036人、裸で泳ぎ生還した者1257人と、胆沢の蝦夷軍は朝廷に対して驚異的な惨敗を与えた。

『続日本紀』には「賊帥夷阿弖流爲が居(おるところ)に至る比(ころあい)」とのみあり、胆沢の蝦夷軍は阿弖流爲の居宅やや手前で朝廷軍と交戦しているが、阿弖流爲が蝦夷軍を指揮していのかまでは不明。高橋崇は蝦夷側の抵抗戦線の中心人物であったといってよいだろうとしている。

降伏

延暦20年10月28日801年12月7日)、延暦二十年の征夷から平安京へと凱旋して桓武天皇に節刀を返上した征夷大将軍坂上田村麻呂が、延暦21年1月9日(802年2月14日)には陸奥国胆沢城を造営するために再び胆沢の地へと派遣されてきた。同年1月11日(同年2月16日)には駿河甲斐相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野等の10国は、国中の浪人4000人を陸奥国胆沢城の柵戸とするようにとの勅が下っている。胆沢城造営についての史料は僅少で、造営開始の時期や完成した時期などは不明である。