8「延暦十三年の征夷に派遣される」

延暦10年(791年)1月18日に桓武朝第二次蝦夷征討が具体化すると、田村麻呂は百済王俊哲と共に東海道諸国へと派遣され、兵士の簡閲を兼ねて戒具の検査を実施、征討軍の兵力は10万人ほどであった。

蝦夷征討(えみしせいとう)とは、日本古代において蝦夷に対して朝廷が行った征討である。中央史観の強かった時代には蝦夷征伐と呼ばれた。

蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にあるが、伝説の域を出ないとする考えもある。しかし、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝には、478年倭王武が宋 (南朝)に提出した上表文の中に以下の記述がある。

「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」

この記述から、この時代には既に蝦夷の存在と、その統治が進んでいた様子を窺い知ることが出来る。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされているが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されている。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っているが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓である。

称徳以前

7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されているが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)に越国の北端とみられるの渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県宮城県以北に城柵が次々と建設された。太平洋側では、白雉5年(654年)に陸奥国が設置されたが、神亀元年(724年)には国府名取郡広瀬川名取川に挟まれた地(郡山遺跡、現在の仙台市太白区)から宮城郡松島丘陵南麓の多賀城に、直線距離で約13km北進移転している。

日本海側では、斉明天皇4年(658年)から同6年(660年)にかけて蝦夷および粛慎を討った阿倍比羅夫の遠征があった後、和銅元年(708年)には越後国出羽郡が設置され、和銅5年(712年)に出羽国に昇格し陸奥国から置賜郡最上郡を譲られた。

この間、和銅2年(709年)にやや大規模な反乱があり(『続日本紀』)、その後も個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はなかった。道嶋嶋足のように朝廷において出世する蝦夷もおり、総じて平和であったと推定されている。

三十八年戦争

宝亀元年(770年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌2年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいるが、光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まっている。

また、光仁天皇以降、仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的に鷹の飼育や鷹狩の規制が行われて奥羽の蝦夷に対してもこれを及ぼそうとし、またそれを名目に国府の介入が行われて支配強化につながったことが蝦夷の反乱を誘発したとする指摘もある。

宝亀5年(774年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、弘仁2年(811年)まで特に三十八年戦争[4]とも呼ばれる蝦夷征討の時代となる。一般的には4期に分けられる。

第1期

桃生城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われた。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めた。後半は主に出羽において戦闘が継続したが、伊治呰麻呂らの協力もあり、宝亀9年(778年)までには反乱は一旦収束したと考えられている。

第2期

宝亀の乱」も参照

宝亀11年(780年)から天応元年(781年)まで。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)とも呼ばれる。

宝亀11年3月22日780年5月1日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をした。

正史の記録には以後の経過が記されていないが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もある。

藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781年)には乱は一旦終結に向かったと推察されている。

延暦八年の征夷

延暦8年(789年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始された。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め、進軍せずにいたが、桓武天皇からの叱責を受けたため蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて軍勢を発したが、朝廷軍は多数の損害を出し壊走、紀古佐美の遠征は失敗に終わったという(巣伏の戦い)。

続日本紀』延暦8年6月3日条には官軍の純粋な戦闘死は25人とみえ、一方で『続日本紀』延暦8年7月17日条には89人の敵軍兵士の首を取ったとあり、同じ巣伏の戦いにおける官軍と胆沢蝦夷軍の戦闘死者数であるならば、官軍は相当善戦したことになる。

しかし延暦8年6月3日条での官軍は阿弖流爲率いる胆沢蝦夷軍に翻弄され、惨敗を喫しているため、その際に敵軍兵士の首を89級も挙げることが出来たとは考えがたい。

そのため延暦八年の征夷は、5月下旬から末頃に起こった巣伏の戦いと呼ばれる第一次胆沢合戦の後に、第二次胆沢合戦が起こっていた可能性が指摘されている。

延暦十三年の征夷

延暦13年(794年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われた。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されているが他の史料がないため詳細は不明である。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているため、中心的な役割を果たしたらしい。