文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて同19年7月23日800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導するなど、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。

 

桓武の生母である高野新笠武寧王を祖とする百済系渡来系氏族の和氏出身で、帰化人の血を引く桓武の登場によって渡来系氏族は優遇措置がなされることもあった

高野 新笠(たかの の にいがさ、生年不詳 - 延暦8年12月28日790年1月17日))は、光仁天皇宮人、後に夫人

桓武天皇早良親王能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后諡号は天高知日之子姫尊(あめたかしるひのこひめのみこと)。

父は百済渡来人和氏で史姓和乙継(やまとのおとつぐ)、母は宿禰姓土師真妹(はじのまいも)(真姝とも)。父方の和氏は『続日本紀』では百済武寧王の子孫とされている。高野朝臣(たかののあそん)は光仁天皇即位後の賜姓。

天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)の宮人(側室)となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)、天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生む。

白壁王は、天平16年(744年)以後、称徳天皇の異母妹、井上内親王を正妃に迎える。

そして宝亀元年(770年)、称徳天皇の崩御により天武系皇統が断絶すると、62歳で擁立され光仁天皇となった。皇后には井上内親王、皇太子にはその子他戸親王が立った。

新笠の甥、和家麻呂が議政官に任ぜられた際、「蕃人の相府に入るはこれより始まる」と記されたように、渡来人の身分は低く、新笠の皇子達にも皇位継承の芽はないかに見えた。

しかし、宝亀3年(772年)3月に井上皇后は、呪詛による大逆を図った罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月に廃太子となった。

翌宝亀4年10月には母子ともに庶人に落とされ、大和国の没官の邸に幽閉。2年後の宝亀6年(775年)4月27日に幽閉先で死去した。

この間、宝亀4年(773年)1月2日に新笠の子、山部親王(後の桓武天皇)が立太子し、藤原式家乙牟漏を妃に迎える。宝亀5年には、王子(のちの平城天皇)が生まれた。

新笠は宝亀9年(778年)1月29日、従四位下から従三位となる。この頃「高野朝臣」を賜り夫人となったが、立后はされず、藤原式家の藤原永手の娘で皇子女のいない藤原曹司が、新笠に先んじて従三位・夫人の位にあった。

天応元年(781年)4月15日、山部親王が桓武天皇として即位すると、新笠は皇太夫人と称された。同年4月27日、新笠は正三位に昇叙。

皇太子に桓武天皇同母弟・早良親王が立ったが、延暦4年(785年)、早良親王は藤原種継事件に連座し淡路へ流される事となり、自ら命を絶った。

新笠は延暦8年に薨去。同じ頃、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人藤原旅子らが相次いで没しており、早良親王の怨霊によるものと噂された。薨去後に皇太后を、さらに延暦25年(806年)には、太皇太后を追贈された。

は大枝陵(京都市西京区大枝沓掛町字伊勢講山に治定、宮内庁管理)。諡号「天高知日之子姫尊」は、百済王族の遠祖である都慕王(東明王)は河伯の娘が日精に感じて生まれた人であるという伝承に因んで名づけられた。

新笠出自と子孫

出自

父の和乙継は、百済渡来人和氏(かばね)は)で、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後、宝亀年間(770年 – 781年)に高野朝臣と改姓(続日本紀に生前の記録がなく、没後の賜姓とも考えられる)。

母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後、延暦9年(790年)に大枝朝臣と改姓(没後の賜姓である)。延暦8年までにどちらも死去し、ともに正一位追贈された。

続日本紀』延暦9年1月15日条には

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真姝なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。…… 其れ百済の遠祖都慕王河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあり、和氏を武寧王、更に古くは東明王の子孫としている。『日本書紀』には、継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、「純陁」と「淳陀」を同一人物とする学者も存在するが、朝鮮側の資料には、武寧王の子に純陁、或いは淳陀に比定できる人物はおらず、和氏が武寧王の子孫であるか疑わしいとの主張もある 。