2「坂上 田村麻呂の出自」(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代公卿武官。名は田村麿とも書く。忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫坂上苅田麻呂官位大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位

4代の天皇に仕えて忠臣として名高く、桓武天皇の軍事と造作を支えた一人であり、二度にわたり征夷大将軍を勤めて蝦夷征討に功績を残した。

薬子の変では大納言へと昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後は平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて武神軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神や厄除の大神として親しまれ、後世に多くの田村語り並びに坂上田村麻呂伝説が創出された。

「坂上田村麻呂の出自に一説に出生

田村麻呂生誕の地については現在まであきらかにされていない。高橋崇は、大伴宿奈麻呂が田村の里に住んだことから娘が田村大嬢と呼ばれたことを例に挙げ、もし田村麻呂も地名に由来する命名であれば「平城京田村里」(奈良市尼辻町付近)が有力な候補地であろうと推測している。

俗説として陸奥国田村庄で誕生したという坂上田村麻呂奥州誕生説や、蝦夷出身であったとする坂上田村麻呂夷人説がある。

1910年代にはカナダの人類学者アレクサンダー・フランシス・チェンバレンなどが田村麻呂が黒人であるという記述を行い、カナダやアメリカの黒人コミュニティの間の一部では現在も広まっている(坂上田村麻呂黒人説)。

坂上田村麻呂伝説(さかのうえのたむらまろでんせつ)は、平安時代初期に活躍した大納言坂上田村麻呂に関する伝説

主に鬼神討征など文芸的な伝説・創作の『討征譚』、地名や記念物および寺社建立にまつわる言い伝えの『寺社縁起譚』の2系統に分類されその両方が交錯する『英雄譚』が日本各地に残されている。征夷大将軍鎮守府将軍として功績を残したことから、足跡を辿るように東北地方に特に多く分布する。

平安時代中期、坂上田村麻呂と藤原利仁は史実をかけ離れて説話軍記物語、寺社の縁起などに頻繁に登場すると同時に、その人物像も次第に史実から解離して伝説化が進んだことで田村語りが萌芽して成長し始めた。

京都での最も早い伝説化は、元亨2年(1322年)に臨済宗虎関師錬がまとめた『元亨釈書』巻9「清水寺延鎮伝」に「奥州の逆賊高丸駿河国清見関を目指して攻め上がり、坂将軍田村の出陣を聞いた高丸は奥州へと退いた」と、清水寺の創建縁起から続けた物語が加えられ、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』では登場していなかった高丸が登場したことで脚色が加えられ、史実から遊離して説話化が進んだ。

東北地方における田村麻呂の事蹟や田村語りは、鎌倉時代末期の正安2年(1300年)頃成立、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている『吾妻鏡』に武具の奉納の言い伝えや達谷窟における賊の討伐と寺院の建立が残されている。

文治5年(1189年)9月21日の条では、源頼朝胆沢郡鎮守府に鎮座する鎮守府八幡宮に参詣した事が記されている。田村麻呂が東夷の為に下向した時に勧進され、田村麻呂の弓箭や鞭などが宝蔵に納められていると創建の由来を記している。

これは平安京岩清水八幡宮が勧進される以前に、田村麻呂により鎌倉方が崇敬する八幡神が胆沢郡の鎮守府に勧進されていた事に驚いて記述した。

同年9月28日の条では、頼朝が鎌倉へと帰還する途中、平泉達谷窟を通ったときの記述に「田村麻呂利仁等の将軍、綸命を奏じて夷を征するの時、賊主悪路王並びに赤頭等、塞を構ふるの岩屋なり」とあり、岩屋から外ヶ浜まで10日あまりで至り、坂上将軍は鞍馬寺を模して多聞天を安置、西光寺と号して水田を寄付したと続けている。『吾妻鏡』で田村麻呂利仁と続けて書かれていることが、のちの田村麻呂と利仁の融合へと影響した。

文芸作品

田村語り」も参照

生前から毘沙門天の化身と評価されていたことから、田村麻呂の事績や伝説は早くから文芸作品となって、室町時代初期の京都では勢州鈴鹿の悪魔を討つ田村』や、中期から後期にかけて鈴鹿御前と夫婦となり近江国高丸や鈴鹿山の大だけ丸を討つお伽草子鈴鹿の草子田村の草子)』が語られ、江戸時代の東北地方では『田村の草子』を底本にした奥浄瑠璃田村三代記』が作られ、人々に伝えられた。

全国各地の寺社や霊地の縁起に取り入れられたのは、これら田村語りのスケールの壮大さが可能にした。

主人公

坂上田村丸」も参照

歴史上の人物である坂上田村麻呂がモデルとされ、物語や伝説によっては出羽や北東北で活躍した鎮守府将軍・藤原利仁と融合されていることもある。

『鈴鹿の草子(田村の草子)』では坂上田村丸俊宗 / 坂上田村麻呂俊宗、『田村三代記』では坂上田村丸利仁 / 坂上田村麻呂利仁とされる。通称は田村丸、田村丸利仁、田村丸将軍など。

史実性の議論

岩手県、宮城県福島県を中心に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。

伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布するが、京都市清水寺を除いて、ほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。

坂上田村麻呂伝説について高橋崇は、討征譚や縁起譚の他に口誦伝説も多く、征討のさいに腰をかけて休んだ石や、矢をかけた矢掛松、奥州誕生説を説いて産湯に使用した泉など「だれの場合にもつきものの採るに足らぬ俗説も多い」とし、伝説がどのようにして作られ、いかなる方法で流布したかなども考慮しなくてはいけないとしている。

また後世の東北地方で田村麻呂を称え、思募していることについて、田村麻呂本人にとってはあずかり知らないことであるが、後世の人々が伝説を受け入れたのは確かであるとしている。

討征譚

東北地方では『田村三代記』が間接的に地元の伝説や寺社縁起譚として取り入れられた場合があり、一般的に地元の鬼神退治譚もしくは鬼神退治の後日譚(残党の退治譚)といった内容となる。

東北地方の他に伝説や縁起譚を持つ寺社は関東地方中部地方近畿地方中国地方にまで及ぶ。各地の縁起は田村語りを基本にしつつ、その地方の歴史的、地理的な役割が反映されている。