456地点は益田市周辺の北側に当たり、受電文の456地点に「?」がつけられているのは容易に電波の届く位置ではないからと推測される。

「信濃丸」が5時10分に445地点付近で仮装巡洋艦「八幡丸」と合流したという報告が極秘戦史に記載されているが]、その元の報告書である戦時日誌では455地点と記載されていることから、実際には446地点とすべきであったと推測できる。なお第3報のものは1枚の電報送達紙に暗号文(『ヒヒヒ「y」』)とその訳文(『敵ハ對州東水道ヲ通過セントスルモノノ如シ』)が記載されたものが残されている(記録場所は対馬南部に存在した神山[こうやま]望楼)。

戦闘

連合艦隊出撃

特に脚注・注釈の無い限り、「極秘 明治三十七八年海戦史」の記述に基づく。 5時5分頃、敵艦見ゆの報に接した第1・第2艦隊に「直ちに出港用意」が 下令され、6時頃、連合艦隊は出港を始めた。「三笠」は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と打電した(打電文後半は秋山真之が書き加えた)。6時35分に「三笠」は先頭に立ち、7時10分、「三笠」は加徳水道を抜け外洋に出た。

触接

対馬・尾崎湾にいた第3艦隊の大部分は5時34分に触接のため出航し、同地点にいた第2艦隊所属の第4駆逐隊もそれに倣った。

「秋津洲」も合流した第3艦隊は10時頃バルチック艦隊を発見しその左前方につき「三笠」に向かって敵情報告を始めた。バルチック艦隊も、夜明けから「和泉」やその他の艦艇を確認していた。

10時30分には第3戦隊も加わりバルチック艦隊の左真横について敵情報告を始めた。11時42分頃旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」の掲げた「和泉」との距離を示す旗旒信号を発砲命令と誤認した後続の諸艦が第3戦隊に向け砲撃を行った。

第3戦隊は16ノットに増速し砲撃を返しつつ距離を離した。やがてロジェストヴェンスキーが発砲を中止させ日本側もやめた。双方に1発の命中弾もなかった。第3戦隊は再び近づき、徐々に減速しながらバルチック艦隊の前に出ていった。

第4駆逐隊は第3戦隊がバルチック艦隊の前に出ていくとそれについていった。この時バルチック艦隊の第1戦艦隊は右八点正面変換(右90度逐次回頭)を行いさらに左八点一斉回頭により単横陣を形成しようとしたが途中で止めて単縦陣に戻った。

ロジェストヴェンスキーは戦後の査問会で、日本艦が見えなくなった隙に第1・第2戦艦隊を一列横陣に展開しようとしたが第3戦隊が再び確認できたためその命令を途中で取り消した、と述べており敵主力に対する備えだったという。

日本側は単横陣が第3戦隊と第4駆逐隊に対してのもの、特に駆逐艦が機雷を撒く危険に備えるものと解釈しており、2番艦と3・4番艦との挙動の違いから2番艦の戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」が信号を誤読して左八点一斉回頭ではなく逐次回頭を行い、3・4番艦は一斉回頭の動きから逐次回頭に修正したと判断している。

どちらにせよ12隻の単縦陣を形成していたバルチック艦隊の主力である第1・2・3戦艦隊は、第1戦艦隊の左側に少し遅れて第2・3戦艦隊が続くという中途半端な陣形となってしまった。ロジェストヴェンスキーはこれを元に戻すべく命令を下したが、「三笠」が姿を現したのはそれの完了より前であった。

邀撃用意

「三笠」は沖ノ島付近での邀撃を目論み南下していたが、波が高く水雷艇の航行に支障をきたしていたため8時50分には水雷艇を三浦湾に退避させ、また連繋機雷の使用にも適さないとして10時8分に奇襲隊の解隊命令を出した。

この頃から第3艦隊旗艦の防護巡洋艦「厳島」より敵情報告を受け取るようになったが、敵の位置は「和泉」のそれより東寄りであった。

次いで第3戦隊旗艦の防護巡洋艦「笠置」からも報告があったが、敵の位置は「和泉」のものより西寄りであった。敵の位置は「和泉」のものが正確であったが、このずれは26日も波が強く艦がそれに流されていたことによるもので、修正も行われていたがその計算が合っていなかった。

「和泉」が正確だったのは26日夜に一旦神ノ浦(若松島か?)に退避していたためである。これによる混乱はあったがひとまず「厳島」の情報を元に動くことにしている。13時15分、「三笠」は第3戦隊を発見し、第3戦隊もまた連合艦隊主力を視認してその後尾に回った。

13時39分、南南西に航行していた「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を南西(ほぼ正面艦首方向)に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令した。

次いで13時40分、右に変針して北西微北へ向かった。この変針の目的は記述が無いが、敵を実際より東側に位置するとした「厳島」の情報で敵のほぼ正面に出てしまったため、反航時のバルチック艦隊との横距離を修正する動きと思われる。

13時55分、「三笠」は左に変針して針路を西にとった。その時、両艦隊の距離は約7海里(≒13,000m)。東郷は連合艦隊旗艦「三笠」へのZ旗(一説によれば「もう後がない」の意味)の掲揚を指示した。この時連合艦隊が使用していた信号簿ではZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた[

14時02分、さらに三笠は左に変針して針路を南西微南にとり、第1戦隊は北東微北の針路をとっていたバルチック艦隊に対して反対の針路に入り、そのまま反航戦を行うかのように装った。海戦図からの推定ではそのまま両国の艦隊が直進すれば先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃で間隔は6,000mとなる。

敵前大回頭

14時05分、敵を南微東に距離8,000mで臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針した。東郷による報告書ではこれを「敵の先頭を斜に圧迫し」としている。

14時08分、「三笠」に続いて「敷島」が東北東に定針したその時、バルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」に攻撃を集中した。日本側はすぐには撃ち返さず距離が縮まるのを待ち、14時10分に「三笠」が距離6,400mをもって「クニャージ・スヴォーロフ」に向けて発砲を始めた。その後、第1戦隊は回頭を完了した艦から発砲を始めた。