第七次攻撃

4月7日に日本の連合艦隊司令部は第七次攻撃を発令した。その作戦案は、第四・五駆逐隊と第十四艇隊および蛟龍丸から成る部隊が第二駆逐隊の護衛の下で旅順港口付近へ機雷を隠密敷設するとともに、第三戦隊(装甲巡洋艦2隻で増強)がロシア艦隊主力の誘致を図り、第一戦隊が誘い出されたロシア艦隊を攻撃するという内容であった。

悪天候のため作戦は順延され、4月12日午後5時40分に機雷敷設部隊は旅順港口へ向けて出撃した。同日午後11時から13日0時30分まで、敷設部隊は各艦船や駆逐艦村雨に曳航された団平船に積まれた機雷計44個を港口外へ敷設した。

この間、雨による視界不良によりロシア側から発見されることはなかった。13日の早朝、敷設援護任務の第二駆逐隊と哨戒中のロシア駆逐艦ストラーシヌイが交戦したのをきっかけに、ロシア巡洋艦バヤーンが救援のため湾外へ出撃し、日本の第三戦隊と旅順の湾口で砲戦となった。日本艦隊を追撃すべくロシア側はマカロフ中将指揮のもとに戦艦ペトロパヴロフスク他、戦艦2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦9隻の艦隊主力が出撃した。

退避する第三戦隊よりの電報を受けて日本の第一戦隊が救援に駆けつけたが、ロシア艦隊はこれを見て反転し、陸上砲台の射程内に日本艦隊を誘う動きを見せた。この時、10時32分ペトロパヴロフスクおよび続航する戦艦ポベーダが共に触雷した。

ロシア側はこれを潜水艇の攻撃と誤認して海面を乱射した。被害を受けたペトロパヴロフスクは砲弾と魚雷の誘爆に加えてボイラーが爆発したことにより沈没し、座乗のマカロフ中将も戦死した。

4月14日、マカロフの後任指揮官として極東総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフ大将が戦艦セヴァストーポリに着任して直接指揮を執ったが、以後日本艦隊の攻撃があっても積極的な反撃を行わなくなった。

更に日本陸軍が塩奥襟襖付近に上陸したことを5月4日に知ったアレクセーエフは連絡を絶たれることを恐れて奉天へ脱出し、艦隊の指揮をウィットゲフト少将に任せた。

第八次攻撃

4月14日夜より15日未明に第二・四・五駆逐隊および第九艇隊は旅順口へ進出したが目標を発見できなかった。同じく15日朝に駆逐隊の収容およびロシア艦隊誘引の任務に出撃した第三戦隊も目的を達することが出来なかった。

第一戦隊と共に旅順口に進出した新戦力の春日日進は間接射撃を行ったがロシア艦の出撃はなかった。

第八次攻撃以後の海上戦闘

5月2日の夜には閉塞船12隻を投入した第三回旅順口閉塞作戦が実施されたが、閉塞には成功しなかった。

日本海軍は、第七次攻撃で機雷が効果を発揮したことから、機雷作戦の拡大を決めた。同年8月にかけて19回にわたり仮装砲艦による機雷敷設を行ったほか、同年6月から12月までは艦載水雷艇も投入し、ダミーを含め計1703個の機雷を旅順港口から約9キロメートルまでの一帯へ敷設した。

ロシア側も機雷による作戦を展開した。5月5日、旅順口の監視を続ける日本艦隊の航路に対し、ウィットゲフト少将は敷設艦アムールによる機雷敷設を実施した。これにより15日の午前11時10分に老鉄山沖で八島と初瀬が触雷沈没した。日本側は八島の沈没のみ発表し、初瀬の沈没は翌1905年5月末まで伏せられた。

この前後には日本側の被害が続出していた。14日には水雷艇四十八号と宮古が触雷して沈没、15日1時30分に旅順沖で吉野が春日に衝突されて沈没、16日には龍田が座礁、17日には事故で大島、触雷で暁を失った。

6月23日、旅順艦隊がウラジオストックへ向けて一旦出航するも、すぐに引き返した。

日本海軍の作戦に対する批判

開戦直後に行われた第一次攻撃について、不徹底であったとの批判がある。

肯定論

軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』 成功した作戦。

ジュリアン・コーベット目的通り、部分的な制海権を獲得した。

平野龍二「日露開戦劈頭における旅順口攻撃の再評価」 当面の旅順艦隊の行動を抑制して陸軍の仁川上陸と韓国政治を有利に運び、朝鮮半島が確保された。その後も、制海権を握ることで第一軍主力の上陸や補給の成功に貢献した。

批判論

外山三郎『日露海戦史の研究』奇襲のチャンスに第二撃が行われず、ロシア主力艦隊に決定的な打撃を与えられなかった。主力部隊が突入すれば全滅に近い戦果が期待できた。

大江志乃夫『世界史としての日露戦争』思想と闘志に欠けていたため、戦果拡大が行なわれず、3度の閉塞作戦が必要になり、それも失敗した。

相沢淳「『奇襲断行』か『威力偵察』か?-旅順口奇襲作戦をめぐる対立-」2005年(『軍事史学 第号』)軍令部の作戦方針の「奇襲断行」に反して「威力偵察」に終わり、旅順艦隊を撃ち漏らしたことで陸軍の大規模投入と犠牲が強要された。

奇襲に評価は様々に分かれるが、大国ロシアに果敢に向かって攻撃に一定の評価はできるのではないか。

 

この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。

この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが、大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。

瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。