1904年(明治37年)2月6日の朝、連合艦隊は佐世保軍港より出撃、第一戦隊(三笠、朝日、八島、敷島、初瀬、通報艦龍田)は7日に朝鮮半島南岸の九針岩付近でロシア貨物船「ロシア号」を拿捕した。先行してロシア商船「アルグン号」を拿捕した第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常磐、磐手、通報艦千早)と合流し、遅れて第三、第四戦隊、第一・二・四・五駆逐隊も旅順沖へ集合した。

ロシア側の態勢

ロシア海軍は、旅順に太平洋艦隊の主力を配置していた。

開戦時のロシア旅順艦隊(主な戦闘艦艇)[1]

戦艦7隻:ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポルターヴァ、ペトロパヴロフスク、セヴァストーポリ、ポベーダ

装甲巡洋艦1隻:バヤーン

防護巡洋艦8隻:パラーダ、ジアーナ、アスコリド、ボヤーリン(、ノヴィーク、ザビヤーカ、ラズボイニク、ジギート

砲艦・水雷砲艦6隻:グレミャーシチイ(、オトヴァージヌイ、ギリャーク、ボーブル、フサードニク、ガイダマーク

駆逐艦18隻(詳細略。他に開戦後の竣工艦が数隻)

旅順港の特色

旅順港は細い水路で結ばれた内港と外港から成る地形だった。旅順港はかねてよりロシアが待望した極東の不凍港であった。ただし、浅水港であり浚渫が不足していたため、喫水の深い戦艦などを内港に停泊させた場合に干潮による着底で艦底を傷めるおそれがあるほか、潮位によって出港不能となった。

逆に、浅水であることを利用して、水線下の水雷被害を干潮時に修理することができた。そのため、大型艦船は当初は水深の深い外港に停泊していたが、攻撃が始まると旅順艦隊の主力は内港へ引きこもることが多くなった。また、外港と内港を繋ぐ湾口が狭く浅いことから、湾口に船を自沈させる閉塞作戦が実施されることとなった。

戦闘経過

第一次攻撃

1904年(明治37年)2月8日18時、日本の連合艦隊は旅順東方44海里の円島付近に進出、第一・二・三駆逐隊を旅順港、第四・五駆逐隊を大連湾へ進撃させた。

20時50分、旅順港外にロシア駆逐艦を発見したので灯火を消したために衝突事故を起こした。日本の駆逐隊は隊列を乱しながらも更に進み、9日0時20分より港外停泊中のロシア艦隊を発見、約10000mから魚雷攻撃した。脱出後は仁川へ10日に集合した。この夜襲で戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、防護巡洋艦パラーダに魚雷が命中した。ツェサレーヴィチは水線下の舵機室を破壊されて浸水、右舷に傾いた後、左舷に18度まで傾いた。

レトヴィザンとパラーダも水線下に大破口を生じて浸水した。3艦は徹夜で防水に努めて、他艦の助けにより曳航されて湾内に入るも座礁擱座した。同時に第四・五駆逐隊が大連湾を襲撃したが敵艦に遭遇しなかった。

続けて翌9日朝より第三戦隊が旅順口の偵察と誘出のためにロシア艦隊に7000mまで接近したが前夜の混乱により戦意がなく、反撃されなかった。続いて第一・二戦隊が11時55分より距離8500mから約一時間にわたって昼間砲撃を行ったが、ロシア艦隊は誘いに乗らず、日本側も陸上砲台の射程に入らなかったため、互いにわずかな損害を出すにとどまった。日本の夜襲を許したスタルク中将は罷免され、代わってマカロフ中将が着任することとなった。

開戦劈頭に旅順口を襲撃した駆逐隊

第一駆逐隊(司令:浅井正次郎大佐)

白雲(狭間光太少佐)

霞(大島正毅少佐)

朝潮(松永光敬少佐)

暁(末次直次郎大尉)

第二駆逐隊(司令:石田一郎中佐)

雷(三村錦三郎大尉)

電(篠原利七少佐)

朧(竹村伴吾大尉)

第三駆逐隊(司令:土屋光金中佐)

薄雲(大山鷹之助少佐)

漣(近藤常松少佐)

東雲(吉田孟子大尉)

第二次攻撃[編集]

日本海軍は第二次攻撃として再度の水雷夜襲を計画した。2月11日17時に第四・五駆逐隊が牙山湾を出港し、第三戦隊も続行したが、12日の明け方から雪を伴った強風が吹き荒れて、進撃する艦、避難する艦、引き返す艦など艦隊は分散してしまった。

2月14日の未明に旅順口へ到達した第四駆逐隊(司令:長井群吉。速鳥、朝霧、春雨、なお村雨は分離して不在)は港外を警戒するロシア駆逐艦3隻と北方に停泊する1艦を発見し、停止艦に対して魚雷攻撃を加えた。攻撃に気付いた陸上砲台からの攻撃を受けたが命中はなかった。荒天により艦隊行動が乱れたこともあり、予定していた港内を狙った間接射撃は実施せず、第二次攻撃は僅か駆逐艦3隻による襲撃になり、戦果も不明であった。

この間に2月16日から27日まで行われた第12師団の仁川上陸が成功し、以後漢城は日本側が確保した。

また、前年の交渉では頓挫した日韓議定書が13日からの交渉で23日に締結されるなど韓国の政治情勢は日本有利に導かれた。

第三次攻撃(第一回旅順口閉塞作戦)

2月18日、東郷は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令した。

23日23時50分、警戒および襲撃を任務とする第五駆逐隊(司令:真野巌太郎中佐。

陽炎、不知火、叢雲、夕霧)と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出した。24日0時30分より月が没すると黄金山・城頭山・白銀山のロシア砲台から探照灯による照射が始まった。