また、ロシアは、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃した。

アメリカ公使ホレイス・ニューン・アレンは「韓国でのロシアの干は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している。

しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した。

1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。

しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。

財政問題及び通貨問題

1896年7月、英国人の税関長ブラウンが財政顧問となった。1897年10月、ロシア公使シュペイエルが、財政顧問を英国人ブラウンからロシア人キリル・アレキセーフへと変えようとする事件が起きた。

通貨においては、韓国の帝室が納付金を徴して白銅貨の私鋳を黙許したため、白銅貨の濫造・密輸が横行し、その悪貨によって商取引に問題が発生していた。

1904年10月、目賀田種太郎が財政顧問となり、同年11月、硬貨の鋳造を行っていた典圜局を閉鎖した。

1905年7月、韓国は日本と同一の貨幣制度を採用し、鋳造は大阪造幣局が行うようになった。1905年8月、ブラウンは税関長を辞め、韓国を去った。

近代化と日本の保護国へ

1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である法規校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革(朝鮮語版)を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。

1905年(明治38年)、7月の桂・タフト協定(アメリカ)、8月の第二次日英同盟条約(イギリス)、9月成立のポーツマス条約(ロシア)により、日本の韓国に対する排他的な指導権が列強によって承認され、同年11月の第二次日韓協約で韓国統監府が設けられて日本の保護国となった。

日韓併合と併合後

1910年(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約(日韓併合条約)の締結により日本に併合され、大韓帝国は滅亡した。 大韓帝国の皇帝は、大日本帝国において1910年(明治43年)の詔勅 (前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為シ皇太子及将来ノ世嗣、太皇帝及各其儷匹ノ称呼ヲ定メ並ニ礼遇ノ件)により、昌徳宮李王に遇された。

 

3、「冊封体制」(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)又册封体制とは、中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係を規定する体制の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。

冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「冊封国」の側は

「臣」の名義で「方物」(土地の産物)を献上

「正朔」を奉ずる(「天子」の元号と天子の制定した暦を使用すること)

などを行った。

「方物」は元旦に行われる「元会儀礼」において展示され、「天子」の徳の高さと広がり、献上国の「天子」に対する政治的従属を示した。「方物」の献上を「朝貢」といい、「朝貢」を行う使節を「朝貢使」と称する。朝貢使は指定された間隔(貢期)で、指定されたルート(貢道)を通り、指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを「職貢」と称する。宗主国と朝貢国の相互関係は、つづめて「封貢」と称された[3]

冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。

冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。

この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。

したがって、冊封関係を結んだからといって、それがそのまま中国の領土となったという意味ではない。 冊封国の君主の臣下たちは、あくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。 冊封関係はこの意味で外交関係であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。

冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもあるが、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることができる。