ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名として「満族」と呼称しており、「満洲」の語を使うことを禁止している。また、かつては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルビンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。

満洲略史

歴史的にこの地域は、古くは遼河文明が栄え、その後は主にツングース系諸民族や濊貊族などの北方諸民族の興亡の場であった。

北方民族のみならず、西部からはモンゴル系、東部からは朝鮮系の民族が勢力を張る事もあり、南部からは記録上周代に周に属する燕が勢力を伸ばし、後に遼東郡、遼西郡などが置かれていたが余りの寒さのために人はほとんど居住せず、不毛の地であった。

周王朝の時代から粛慎が遊牧しており、時代と共に挹婁、勿吉、靺鞨へと古代中国側から見た名称は変遷した。

満州の南部には濊貊族が建てた夫余(前1世紀から5世紀)、夫余の王族が建てたとされる高句麗(前1世紀から7世紀)、靺鞨族の建てた渤海(698年から926年)など、 モンゴル系とされる鮮卑の前燕、後燕などや契丹の遼(916年から1125年)なども存在した。

 チベット系の氐族の立てた前秦(351年から394年)の支配が一部及んだ事もある。12世紀には靺鞨の子孫とされる女真族が金を建国、遼と北宋を滅ぼして中国北半分をも支配するに至る。

金はモンゴル民族のモンゴル帝国(元)に滅ぼされ、この地は元の支配下に入る。

次いで元は漢民族の明に倒され、一時は明の支配下となり、明代に山海関と名付けられることになった長城最東端のよりも外の土地という意味で「関外の地」、あるいは、関よりも東の土地という意味で「関東」とも呼ばれた。後に女真族への冊封による間接統治に改められた。

17世紀に女真族から名称変更した満州族が後金を起こして同地を統一支配した後、国号を改めた清朝が明に代わり、満洲地域及び中国内地全体が満洲民族の支配下に入る。

清朝は建国の故地で後金時代の皇居(瀋陽故宮)がある満洲地域を特別扱いし、奉天府を置いて治めた。後には奉天府を改めて東三省総督を置き、東省または東三省(奉天、吉林及び黒竜江の3省)と呼んだ。

当初は「遼東招民開墾例」(1644年)をはじめとする勧民招墾の諸法令を公布し,漢族の満洲植民を奨励していたが、1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。

近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた(清露国境紛争)。

ヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなど、ロシア人の探検隊が黒竜江流域に南下・侵入し、村落を焼いたり捕虜をとったり毛皮を取り立てたりして植民地化の動きを見せたため、これを追い出し国境を定める必要が生じた。1689年にネルチンスク条約が締結され、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められた。

その後、清朝はロシアの脅威に対抗するため、兵士を駐屯させる。しかし王朝末期に弱体化した清朝はロシアの進出を抑えきれず、1858年5月28日のアイグン条約、1860年11月14日の北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなった。

そして1860年には政策を転換して、漢族の移住を認め、農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させた。

この民族移動のことを「闖関東」という。

1860年の満州(遼寧、吉林、黒龍江の東三省)の人口は320~370万人ほどと見積もられており、それが、1908年には1583万あるいは1734万人、1931年の満州事変前には3000万人、1945年の満州国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加している。清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増したとも言われるが、清朝崩壊以前から人口増加率に大きな違いは無い。

1900年にはロシア軍によってブラゴヴェシチェンスクで清国人数千人が虐殺されるアムール川事件が起きる。

1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、上記の条約によって確保されていたロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、南満洲に属するものは日本へ引き渡された。

弱体化した清朝は1911年の辛亥革命で倒された。翌年成立した中華民国は清朝領土の継承を宣言し、袁世凱の勢力圏であった満州も中華民国政府の統治下に入った。

しかし、袁世凱と孫文の対立から、中華民国は各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、満州でも張作霖の軍閥が台頭しその支配下となる。

北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、ロシア革命に対する干渉戦争として行われたシベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを日本軍が占領する事になった。1920年には日本占領下のニコラエフスクを赤軍パルチザンが襲撃し、破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。日本以外の連合軍は1920年に、日本は1922年に撤退し占領は解除された。