義朝は東国への脱出を図るが途中で頼朝とはぐれ、朝長・義隆を失い、12月29日尾張国内海荘司・長田忠致の邸にたどり着いたところを鎌田政清とともに殺害された。

   義朝と政清の首は、正月9日、京都で獄門に晒された。義平は18日、難波経房の郎等・橘俊綱に捕らえられ、21日、六条河原で処刑される。

   頼朝も2月9日、頼盛の郎等・平宗清に捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命された。

   この背景には頼朝が若年であったことに加え、彼がすでに上西門院の蔵人をつとめていたため、上西門院とその近臣である熱田大宮司家(頼朝の生母が熱田大宮司家の出身であり、頼朝自身も熱田神宮で生を受けた)が待賢門院(後白河上皇・上西門院の母)近臣家出身の池禅尼に働きかけた可能性が考えられる。

   義朝と行動を共にした源重成・季実も滅亡の運命を辿り、ここに後白河院政派は事実上壊滅することになる。

   経宗・惟方の失脚

   合戦の終息した12月29日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。

   同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。翌永暦元年(1160年)正月、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、自らの権威の安定につとめた。

   実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。

   正月6日、後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。

   後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。

   貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。

   経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。

   2月22日、信西の子息が帰京を許され、入れ替わりに3月11日、経宗が阿波、惟方が長門に配流された。

   同日、師仲・頼朝・希義(頼朝の同母弟)もそれぞれ配流先に下っていった。

   6月には信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され、14日、殺害された。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。

   平氏政権の成立

   後白河上皇と二条天皇の対立は双方の有力な廷臣が共倒れになったため小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」(『愚管抄』)とあるように二頭政治が行われたが、乱勝利の最大の貢献者である清盛はどちらの派にも与することなく慎重に行動した。

   平氏一門は院庁別当・左馬寮・内蔵寮などの要職を占め、政治への影響力を増大させた。

   平氏の知行国も平家貞が筑後守、藤原能盛が壱岐守・安芸守、源為長が紀伊守となるなど、一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなった。さらに多くの軍事貴族が戦乱で淘汰されたため、京都の治安維持・地方反乱の鎮圧・荘園の管理の役割も平氏の独占するところとなり、国家的な軍事・警察権も事実上掌握した。

   清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、永暦元年(1160年)6月に正三位に叙され、8月に参議に任命され、武士で初めて公卿(議政官)の地位に就いた。

   やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していったのである。