さらに内裏の復興にも着手して、保元2年(1157年)10月に再建した。その直後にも新たに新制30ヶ条を出し、公事・行事の整備、官人の綱紀粛正に取り組んだ。

   この過程で信西とその一族の台頭は目覚ましく、高階重仲の女を母とする俊憲・貞憲は弁官として父と共に実務を担当する一方で、紀二位(後白河の乳母)を母とする成憲・脩憲はそれぞれ遠江・美濃の受領となった。信西自身は、保元の乱で敗死した藤原頼長の所領を没収して後院領に組み込み、自らはその預所になるなど経済基盤の確保にも余念がなかった。

   平氏一門の台頭

   国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇する。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していたが、乱後には清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めてさらに勢力を拡大した。

   また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だった。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れといえる。

   大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。

   清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行った。

   さらに清盛は大宰大弐に就任することで日宋貿易に深く関与することになり、経済的実力を高めた。

   信西は、自らの子・成憲と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚約によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えた。

   二条親政派の攻勢

   しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在した。美福門院を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)である。

   美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となっており、その意向を無視することはできなかった。

   美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求した。

   もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したものであり、信西も美福門院の要求を拒むことはできず、保元3年(1158年)8月4日、「仏と仏との評定」(『兵範記』)すなわち信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位した(二条天皇)。

   ここに、後白河院政派と二条親政派の対立が始まることになる。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧する。

   これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだこともあり、頼れるのは信西のみであった。しかも信西自身も元は鳥羽法皇の側近で美福門院とも強い関係を有していることから、状況は不利であった。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となった。

   信頼の登場

   ソこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢する。信頼は保元2年(1157年)3月に右近権中将になると、10月に蔵人頭、翌年2月に参議・皇后宮権亮、8月に権中納言、11月に検非違使別当と急速に昇進する。

   もともと信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していた。

   久寿2年(1155年)8月に源義平(義朝の長男)が叔父の義賢を滅ぼした武蔵国大蔵合戦においても、武蔵守であった信頼の支援があったと推測される。保元3年(1158年)8月に後白河院庁が開設されると、信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任する。

   義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭であり、両者の同盟関係はさらに強固となった。

   義朝の武力という切り札を得た信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻も実現させる。

   摂関家は保元の乱によって忠実の知行国・頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑されたことで各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていた。

   混乱の収拾のためには代替の武力が必要であり、義朝と密接なつながりのある信頼との提携もやむを得ないことであった。