なお、後三年の役で勝利したにもかかわらず恩賞が与えられなかった点に関しては、本来朝廷の命令(官符)無しに合戦を起こすことは当時でも違法行為であり、合戦の途中においても「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりしている。従って追討の事後承認を求めたのに対して、これを拒否したのは不思議ではない。

Ø  更に当時は「財貨」であるより以前に、朝廷の諸行事の装飾の貴重にして重要な材料であり、ほとんど陸奥からしか手に入らなかった砂金の「不貢金」を起こしている。

Ø  これは租税未収以上の、朝廷の諸行事に支障をきたす大問題であり、そのために朝廷の公卿議定で議題にあがっている。

   受領の勤務評定である受領功過定を10年も通らなかったのは当時の制度にそった処置であり、義家だけがそうであった訳ではない。

Ø  白河院が院近臣であった国守を、受領功過定を経ずに同じ国でそのまま重任(他国に転ずるより利益は大きい)させようとしたのを藤原師通が猛反対して諦めさせたことまである。

Ø  その官物未進の決着に10年がかかるが、それがやっと完済できたのかどうかは記録が無いが、その合格は内大臣藤原宗忠の日記である中右記・承徳2年正月23日条には「件事依有院御気色也」、つまり白河法皇の意向であったことが記されている。

   伝承の世界

Ø  前九年の役の時、天喜5年11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎となって逃れたが、その戦いの中で「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。

Ø  白刀を冒し、重圍を突き、賊の左右 に出でて、大鏃の箭を以て、頻りに賊の師を射る。矢空しく発たず。中たる所必ず斃れぬ。雷の如く奔り、風の如く飛び、神武命世なり」。と『陸奥話記』にある。

Ø  同じ『陸奥話記』には、その後清原武則が「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、義家は「善し」と。

Ø  そこで武則は「堅き甲(かぶと:と読むが鎧のことか)三領を重ねて、これを樹の枝に懸る。義家は一発にて甲三領を貫かせしむ」。武則は大いに驚いて「これ神明の変化なり。あに凡人の堪える所ならんや。宜しく武士の為に帰伏する所、かくの如し」と語ったという逸話がも残る。

Ø  義家が2歳の時に用いた「源太が産衣」という鎧と、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったことから「髭切」と名付けられた刀は、河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱では源頼朝が用いたという逸話が鎌倉時代初期の『平治物語』にある。これは源頼朝が源氏の嫡流であると印象づけるための創作といわれている。

 

   平治の乱(へいじのらん)は、平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。

   文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。

   信西の執政

   保元元年(1156年)の保元の乱に勝利した後白河天皇は、同年閏9月に『保元新制』と呼ばれる代替わり新制を発令した。

   「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、荘園整理令を主たる内容としていた。

   鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていた。

   この荘園整理令はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置くことを意図したものであり、荘園公領制の成立への大きな契機となった新制と評価されている。その国政改革を立案・推進したのが、後白河の側近である信西であった。

   信西は改革実現のために、記録所を設置する。長官である上卿には大納言・三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁・藤原惟方、左少弁・源雅頼、右少弁・藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたった(後白河が「暗主」であるという信西の言葉は、この記録所の寄人だった清原頼業が九条兼実に後年語ったものである)。