8「義家の弟義綱」

   源 義綱(みなもと の よしつな)は、平安時代後期の武将。河内源氏2代棟梁・源頼義の次男。母は平直方の娘で、兄の源義家(八幡太郎)、弟の源義光(新羅三郎)と同腹である。

   河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の河内源氏の香炉峰の館に生まれる。京都の賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と称する。

   父や兄と共に前九年の役で戦い、その勲功を賞され天喜6年(1058年)2月25日に右衛門尉へと任ぜられる。

   兄の義家とは不仲であったらしく、後三年の役には参戦せず京都に留まり、寛治5年(1091年)5月には河内にある郎党たちの領地をめぐり義家と合戦寸前にまで至るが、二人の主人である関白藤原師実が仲裁に入って事なきを得た。

   寛治7年(1093年)、出羽守信明(姓不詳とされてきたが『後二条師通記』に同年の出羽守源信明とある)が平師妙と子の平師季に襲撃され殺害された。隣国陸奥守を務めていた義綱に追討が命ぜられた。

   遙任をしていた義綱は自ら下向する前に郎党を派遣した。その郎党は師妙を斬り、乱を鎮圧した。義綱はその功で従四位下に序せられ美濃守に転任した。

   嘉保2年(1095年)、美濃の延暦寺荘園領を宣旨によって収公した際、寺側と小競り合いになり、1人の僧が矢に当たって死んだ。

   延暦寺・日吉神社はこれに怒り、強訴を行った。関白藤原師通は義綱の他に源頼治を派遣してこれを撃退したが、その際、矢が神輿や神人に当たり、それが仏罰となって、数年後の師通の若死にをもたらしたとも言われている。

   嘉承元年(1106年)7月1日に兄義家が没すると、河内源氏の棟梁は甥で義家の三男の義忠が継いだ。

   それから3年後の天仁2年(1109年)2月3日夜、義忠が何者かに斬りつけられ、2日後に死亡するという源義忠暗殺事件が発生した。

   当初犯人は美濃源氏の源重実とされたが無実が判明すると、今度は義綱と三男の義明が犯人と目されて朝廷から嫌疑を受けた。

   現場に残された刀が義明のものだったからである。実行犯は義明の乳母夫であり滝口武者である藤原季方であるとされた。

   義綱はこれに怒り、嫡男義弘をはじめとする5人の息子達もこれに抗議の意を込めて父子そろって近江国甲賀山(鹿深山)へ立て籠もるという行動をとった。その際、義明は病の為に行動を共にせず、藤原季方の館に籠った。

   こうして甲賀山に入った一行ではあったが、棟梁を継いだ義忠の甥為義が白河院からの追討命令を受けた上、義綱の弟であり真犯人である義光が為義の後押しをするに及んで甲賀山攻撃を開始すると義綱方は各所で敗退し、ついに義綱は降伏しようと言い出した。

   しかし、それに納得できない息子たちは抵抗し、嫡男義弘が義綱に切腹するように言い寄った。

   それでも義綱は投降しようとしたので義弘は父に範を示そうと兄弟たちの中で真っ先に自害することにし、高い木に登ってそこから谷底に飛び降りて投身自殺した。

   その後、次男義俊も投身自殺、四男義仲は焼身自殺、五男義範は切腹し、六男義公も自害して果てた。

   こうして次々と息子たちが自害していく中でただ一人残された義綱はついに甲賀郡大岡寺で出家し為義に投降、三男義明も藤原季方も自害した。そして、義綱は佐渡に流された。

   だが、20年以上たった天承2年(1132年)、配流先の佐渡で再び為義の追討を受ける事となり、ついに自害。後に義忠殺害は冤罪であり、真犯人は弟源義光であった事が判明した。

   祖父頼信、父頼義、兄義家、弟義光と共に河内源氏の氏神である壷井八幡宮に併設されている壷井権現に祀られている。

Ø   

Ø  12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。

Ø  この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。後の「北面武士」の下地にもなった出来事である。

Ø  この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。