しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、これにより応徳3年(1086年)11月、白河天皇は輔仁親王ではなく、実子である8歳の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。

   なお、堀河天皇の生母で白河天皇が寵愛した中宮・賢子は、実仁親王薨去の前年に若くして病没している。

   太上天皇となった白河上皇は、幼帝を後見するために自ら政務を執り、いわゆる院政が出現した。

   以後も引き続き摂政関白は置かれたが、その実態は次第に名目上の存在に近いものとなってゆく。

   ただし、白河上皇は当初から強い権力を有していたわけではなかった。天皇在位中からの摂関であった藤原師実とは協調を図っており、師実も争いを好まなかったこともあって、実際の政策決定過程において親政期及び院政初期には摂関政治と大きな違いはなかった(師実は摂政もしくは大殿として、白河上皇の院庁の人事や御所の造営にまで深く関与していた)。

   上記の通り早々に退位したのは実子・善仁親王への譲位が目的であり、善仁親王の母親は師実の養女・賢子であり、後三条天皇の在位期間を例外として、再び2代続けて藤原氏が天皇家の外戚となり、これは実際には摂関政治への回帰だったと言える。

   堀河天皇が成人すると、上皇の政治介入に反発する関白・藤原師通とともに親政を図って一時成功していた時期もあったが、幼帝の後見という目的を果たしたことや、後述のように出家したこともあって、白河法皇もこれを許容していた。

   それが大きく転換したのは、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続く堀河天皇の崩御、その皇子で白河法皇の孫である第74代鳥羽天皇の即位が契機であったと考えられている。

   摂関政治の機能停止に伴って、父院である白河法皇が摂関に替わる天皇の補佐機能を行うようになり、更に堀河天皇の崩御に伴う幼帝(鳥羽天皇)の再出現と、政治的に未熟な若い摂政(藤原忠実)の登場によって、結果的に権力が集中したと考えられている。

   永久元年(1113年)に発生したとされる永久の変において、なお期待されていた輔仁親王を没落に追い込んだ。

   政治的権限を掌握した白河法皇は、受領階級や武家出身の院近臣を用いて専制的な政治を行った。

   特に叙位・除目に大きく介入し、人事権を掌握する。鳥羽天皇践祚後最初の除目である嘉承3年正月の除目では、近習の多くを実入りの多い国の受領に任じた。藤原宗忠はその態度を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評している。

   この除目以降、院の人事介入は「任人折紙」(にんじんおりがみ)という非公式の文書を、天皇や摂政に渡すことで行われた。

   武士は、院の警護役として創設した北面武士などにあてた。特に康和4年(1102年)と保安元年(1120年、保安元年の政変)の2度にわたって藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せることになった。

   更に実仁親王立太子を巡る教訓から、堀河・鳥羽・崇徳の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めずに出家させて、皇位継承権を剥奪した(法親王制度の創設は彼らへの慰藉の側面もある。

   なお、崇徳の異母弟である近衛天皇の誕生は白河法皇の没後である)。また、賢子との間の第一皇女・媞子内親王に深い鍾愛を注ぎ、幼帝の立場を強化する意味合いもあって、媞子内親王を堀河天皇の准母とし中宮に立后させた。

   非配偶の后(尊称皇后)の始めである。また、自分の従兄である藤原公実の遺児である藤原璋子を養女として育て、後に鳥羽天皇の中宮としてその子を崇徳天皇として即位させた。

   崇徳天皇は系譜的な外祖父は公実であるが、現実の外祖父は故人である公実ではなく璋子の養父の白河法皇であり、法皇も天皇の外祖父として儀式に関与するなどの役割を果たしている。

   熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096年)には鍾愛する皇女・媞子内親王の病没を機に出家し、法名を融観として法皇となった。