同年秋、新たな陸奥守として源義家が下ってくると、真衡は再び秀武討伐に出羽へ出陣した。

   家衡と清衡はその隙に真衡の館を襲撃したが、真衡の妻子が応戦し、さらに義家も救援に駆けつけたため、家衡・清衡は大敗を喫して義家に降伏した。

   だが真衡が出羽への行軍途中に病で急死したため、家衡は許されて、義家の裁定で真衡の旧領である奥六郡を清衡とともに三郡ずつ分割継承することになった。しかし家衡はこの裁定に不満で、清衡との対立を深めてしまい、1086年(応徳3年)にはついに清衡の館を襲撃して清衡の妻子を殺害した。

   清衡は義家に救援を仰ぎ、自らの裁定に逆らった家衡の行為に怒った義家は清衡に味方して家衡を攻撃したが、沼柵(秋田県横手市雄物川町)に立てこもった家衡は、攻め寄せた清衡・義家を打ち破った。

   これを聞いて一族の誉れとした叔父清原武衡は家衡に味方し、家衡は武衡の誘いで、より強固な金沢柵(秋田県横手市)に移った。

   1087年(寛治元年)、金沢柵に攻め寄せた清衡・義家はこれを攻めあぐんだが、清衡に味方した吉彦秀武の献策による兵糧攻めで柵は陥落した。

   家衡は所有していた名馬・花柑子を射殺したのち、下人に変装し逃亡を図り、近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬られた。

   これにより奥羽に覇をとなえた清原氏は滅亡した。前九年の役終結後に生まれたことを考えると、享年は26以下と見積れる]

 

   7「白河帝の爪牙

Ø  承暦3年(1079年)8月に美濃で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉・源重宗(清和源氏満政流4代)を官命により追討。

Ø  永保元年(1081年)9月14日に検非違使と共に園城寺の悪僧を追補(『扶桑略記』)。

Ø  同年10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と2人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、この時本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。

Ø  さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。

   白河天皇(しらかわてんのう、1053年7月7日〈天喜元年6月19日)〉-1129年7月24日〈大治4年7月7日〉)は、日本の第72代天皇(在位:1073年1月18日〈延久4年12月8日〉- 1087年1月3日〈応徳3年11月26日〉)。諱は貞仁(さだひと)。

   後三条天皇の第一皇子。母は藤原氏閑院流藤原公成の娘で、藤原能信の養女である藤原茂子。同母妹に篤子内親王(堀河天皇中宮)。

   後冷泉天皇の東宮・尊仁親王(後三条天皇)の第一皇子として生まれる。母茂子、外祖父の能信ともに幼少時に死別し、父尊仁親王は関白の藤原頼通に冷遇されていた。

   治暦元年(1065年)に13歳で元服。治暦4年(1068年)、父帝即位とともに親王宣下を受け、貞仁親王となる。

   翌延久元年(1069年)立太子。同3年(1071年)に関白藤原師実の養女・藤原賢子が参入した。

   延久4年(1072年)、後三条から譲位され、20歳で即位する。関白は置いたが、延久5年(1073年)の後三条上皇の病没後も、父同様に親政を目指し、荘園整理などに力を入れ、永保元年(1081年)宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立する等、摂関家の権勢を弱めることに努める。

   また摂関家内部でも関白の地位をめぐる藤原教通・信長父子と師実の対立があった。

   父・後三条上皇とその母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反摂関家の貴族の意志もあり(白河天皇は関白の養女・賢子を中宮としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。