朝廷側の兵力はおよそ10,000人と推定され、うち源頼義率いる軍は3,000人ほどであった。

   厨川落城

   清原氏の参戦によって形勢は一気に朝廷側有利となった。緒戦の小松柵の戦いから朝廷軍は優勢であった。

   同年9月17日に安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)。

   貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取った。

   経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首された。こうして安倍氏は滅亡し戦役は終結した。

   清原氏参戦後、わずか1ヶ月で安倍氏が滅亡した点については、ある時点で安倍氏と清原氏の間に密約が成立し、清衡の助命と引き替えの早期の終戦が合意されていたのではないかとの見方もある[2]

   戦後処理

   康平5年12月17日(1063年1月19日)頼義は騒乱鎮定を上奏。しかし康平6年2月25日(1063年3月27日)の除目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となった。

   貞任の弟宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。このことは『平家物語』にも記述が見える。

   武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。経清の妻であった頼時の息女(有加一乃末陪)は夫と兄の敵として戦った武貞に再嫁し、経清の遺児(後の藤原清衡)共々清原氏に引き取られた。

   ただし、頼義が求めていた郎従10名余りに対する恩賞は出されず、これに不満を抱いた頼義は以後も2年にわたって伊予には赴任せず、京都にて朝廷と交渉を続けることになった。

   文献に見る前九年の役

   『陸奥話記』は数々の挿話を交えて本合戦の様子を記しているが、テクストによる異同も多く、その内容を検討するには史料批判が必要である。また既存の漢籍から引き写されたとおぼしき部分も散見される。

   なお、本役の性格について、『今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」等を踏まえ、蝦夷の反乱に同調しようとしたとの嫌疑を頼義から受けたことに伴うものとの蝦夷側に立った見解が近年出されている。

   源氏の神話化の原点としての前九年の役

   「前九年の役」における頼義・義家の戦勝は、河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。

   実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。

   彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある。

   頼朝は源義経及び奥州藤原氏の征討に際し、自身が「前九年の役」を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地「厨川(厨川柵)」へ赴き、義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現したと記されている。

   また、後世、前九年の役の聖地とも言える「斯波郡」を領有した足利氏の分家は斯波氏を名乗り、室町幕府三管領家の筆頭格となった。

   なお、江戸幕府を開いた徳川家康は河内源氏の新田氏の傍流である得川氏を自称した。

   宇治拾遺物語の「白河院おそはれ給事」には、義家の武芸が人智を超えたものであったと記されている。