前九年の役を描いた『陸奥話記』では「沈毅にして武略にまさり、最も将帥の器なり」「士を愛し施しを好む」とされている。

   一方で、阿久利川事件後の安倍氏との戦いでは、部下の離反により作戦行動に失敗していることなどから、その能力を疑問視する意見もある。

   とは言え、前述のように10有余年にわたって奥州で戦い抜いた頼義に対する朝廷の評価は頗る高く、伊予守という受領の筆頭格の地位を与えた戦後の恩賞を見てもそれは明らかである。

   『中外抄』や『古事談』には母親の修理命婦が自身の侍女の半物の恋人の随身と密通して随身中臣兼武を産んでおりこれを嫌悪し前九年の役で死亡した馬の供養はしても母親の供養はしなかったと書かれている。また母方の身分の低さから頼義自身も官職では伸び悩んでいた事もあり、それ以降河内源氏の棟梁は家柄の良い娘を選ぶようになったと『中外抄』には伝えられている。

   子女

   長男:義家 - 八幡太郎。

   次男:義綱 - 賀茂次郎。

   三男:義光 - 新羅三郎。

   四男:親清 - 三島四郎。

   娘:平正済室

   娘:清原成衡室?

   範良(奥州清縄にて出生。頼義が奥州合戦時の側室の子、周防国清縄紙氏・弘中氏始祖)

 

   4「前九年の役」

   前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の陸奥国(東北地方)で起こった戦いである。

   名称の変遷

   この戦争は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。

   ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。

   これは源頼義が本格介入した年を基準として戦乱を9年間と計算したという説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。

   また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。さらに、「役」の表現には「文永の役」「弘安の役」(元寇)同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。

   しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。

   戦いの経緯

   開戦まで

   陸奥国の土着で、有力豪族の安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、半独立的な勢力を形成していた。

   鬼切部の戦い

   11世紀の半ば、安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態になった為、永承6年(1051年)、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試み、玉造郡鬼切部(おにきりべ)で戦闘が勃発した。

   この鬼切部の戦いでは秋田城介の平繁成も国司軍に加勢したが、安倍氏が勝利し、敗れた登任は更迭され、河内源氏の源頼義が後任の陸奥守となった。

   永承7年(1052年)、後冷泉天皇祖母・上東門院(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気快癒祈願の為に大赦を行い、安倍氏も朝廷に逆らった罪を赦されることとなった。

   安倍頼良は陸奥に赴いた頼義を饗応し、頼義と同音であることを遠慮して自ら名を頼時と改めた。

   また天喜元年(1053年)には頼義は鎮守府将軍となった。