「八幡太郎義家の群像」

   1「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・2

   2「源義家の出自」・・・・・・・・・・・・3

   3「義家の父源頼義」・・・・・・・・・・・4

   4「前九年の役」・・・・・・・・・・・・・25

   5「前九年の役から下野守まで」・・・・・・34

   6「後三年の役」・・・・・・・・・・・・・38

   7「白河帝の爪牙」・・・・・・・・・・・・60

   8「義家の弟義綱」・・・・・・・・・・・・76

   9「後三年の役の評価」・・・・・・・・・・83

   10、「源義家一族の低迷」・・・・・・・・94

   11、「白河法王の陰謀」・・・・・・・・・100

   12、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・132

 

 

 

   1、「はじめに」

   平安後期の武将。源義家は河内源氏。父は源頼義、母は平直方の女。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号す。1051年(永承6)に始まった「前九年の役」に父に従って参戦、1062年(康平5)同乱平定の功により出羽守となる。1070年(延久2)に陸奥で藤原基通を、1079年(承暦3)には美濃で源重宗を追討、また京都でも悪僧の防禦・追補にあたる。1083年(永保3)陸奥守に就任、豪族清原氏内紛である「後三年の役」に介入。義家の調停に反抗した清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令を無視し、砂金等官物の納入も怠ったため、合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以降、摂関家に近侍した弟義綱と対立、1091年(寛治5)には義綱との合戦を企て朝廷から処罰される。1098年(聖徳2)白河院の昇段を許され1104年(長治元)延暦寺の悪僧の追補に活躍。反面、1101年(康和3)に嫡男、源義親が九州で乱行したほか、一族に不祥事が相次ぎ最中に死去。義家は武家棟梁として大きく評価されるが、彼の武力には畿内周辺を基盤とする軍事貴族層が目立ち、諸国の武士の統率者という理解には疑問がある。また後三年役後の不遇も一族の不祥事、内紛によるもので、公家による抑圧とは考え難い。