11「将軍不在で京都は混乱」

Ø  この変で義輝は殺され、室町幕府の棟梁である征夷大将軍が不在になってしまった。先に6代将軍足利義教が暗殺された嘉吉の乱では、管領の細川持之らが評定を開いて直ちに後継将軍が定められたが、応仁の乱以降管領の力は急激に弱まり永禄の変以前の永禄6年(1563年)に管領細川氏綱が死去すると、次期管領は任命されなかった。

Ø  また、当時は将軍・管領の不在は珍しくはなく、その状況下でも奉行衆ら在京の幕臣によって最低限の幕府機能は維持されていたが、今回の場合は事件への対応を巡って在京の幕臣の分裂も招いて幕府機能は事実上停止するに至った。

Ø  更に、京都を支配する三好・松永両氏と京都近郊の有力守護である朝倉氏が別々の後継将軍候補を擁している状況にあった。

Ø  この事態に朝廷は苦慮した。永禄9年(1566年)4月、朝廷は吉田兼右の推挙で義昭を従五位下左馬頭に任命した。

Ø  馬寮の官職は清和源氏ゆかりのもので次期将軍候補とされた人物が歴任する事も多かった。これに焦った義栄も巻き返しを図り、翌年初めには同じ従五位下左馬頭に任じられた。ここに将軍候補が並び立ったのである。

Ø  義栄は三好氏の、義昭は朝倉氏の支援をそれぞれ受けており、将軍宣下のための上洛は近いと思われた。

Ø  だが、三好氏は三人衆と久秀の内紛が続き、朝倉氏は一向一揆対策に追われて上洛どころではなかった。

Ø  また、三好氏の場合は在京の幕臣の中に義輝殺害に対する反発や義栄への非協力的な動き(特に行政実務を担当していた奉行衆でこの動きが強く、一部は義昭の生存を知って越前に向かう)があり、三好氏に擁された義栄が上洛できる環境にはなかったとする指摘もあり、実際に三好氏は京都周辺にあった幕臣の所領の安堵と引換に義栄陣営への取り込みを図っている。

Ø  そこで朝廷は2人の将軍候補に対して取り敢えず一万疋(百貫)の銭貨の献金を将軍就任の要件として求めた。

Ø  これに対して先に応じたのは義栄であった。義栄は一万疋の献金を半分にまけて貰った上に永禄11年(1568年)2月に摂津富田において将軍宣下を受けた。だが、京都の情勢は不安定で義栄の入京は先送りとなった。

Ø  ところが、義昭は尾張の織田信長に頼って同年9月に上洛、織田軍は三人衆の勢力を駆逐、久秀と義継は信長に降伏、富田の義栄は阿波に逃れるものの間もなく病死した。朝廷は10月になって義昭を新将軍とした(義栄の死去日ついては諸説あり、前将軍の義栄は解任されたか死去によって将軍職が空席になったのかは不明である)。

Ø  義昭は先の義栄将軍宣下の関係者の処分を要求し、関白近衛前久と参議高倉永相は石山本願寺を頼って逃亡し、権中納言勧修寺晴右は蟄居、参議水無瀬親氏は義栄と共に阿波に下った。

Ø  これに対して、義昭のために越前国に下って義昭の元服の加冠役を務めた二条晴良は、義昭の後押しによって次の関白に任じられている。

Ø  これまで、公家社会では近衛家(いわゆる近衛流摂関家)が足利義晴及びその子である義輝と婚姻を結んで外戚の地位を獲得し、これに対して摂関の地位を巡って競合関係にあった九条家や二条家(いわゆる九条流摂関家)が足利義維・義栄父子を支援して更に石山本願寺とも深くつながっていた。

Ø  このため、義晴や義輝が京都を追われた際には近衛家も随従するのが恒例であった。ところが、永禄の変において近衛前久では父・稙家の病気の影響か、稙家の弟である義俊の計らいで奈良を脱出した義昭を擁して近江や越前に下ることをせず、三好三人衆と和睦して義栄を擁する方向に路線転換し、両者の接近を警戒する九条稙通や二条晴良が反対に義昭を支援したため、公家社会の力のバランスに変動を起こした(なお、九条流摂関家とともに義栄を支持してきたとみられる本願寺は立場を変えなかったため、義昭に追放された前久を受け入れるとともにこれまで二条家に依頼してきた法主の猶父を近衛家に切り替えている)。

   義昭・信長と前久・石山本願寺との対立は後の石山合戦の一因となるが、兵乱の過程において、信長との関係が悪化した義昭は本願寺と和解し、反信長同盟(いわゆる信長包囲網)を形成するも信長に敗れ、室町幕府は滅亡することになる。