「三好三人衆と松永久秀と対立」

Ø  三好三人衆は義栄擁立を画策する一方で、長慶の死後に三好氏の家政を握った松永久秀と対立し、主君三好義継を擁して久秀の排除を画策した。

Ø  その頃、久秀は実力をもって大和守護を自称して大和の平定に動いていた。同国は元々興福寺に守護の権限があり、興福寺の衆徒であった筒井順昭が戦国大名化して大和を平定していたが、順昭が急死すると後継者である筒井順慶が幼い事を幸いに、永禄2年(1559年)に久秀は長慶の命令を受けて大和に侵攻し、筒井氏の所領と興福寺が持つ守護の地位を奪い取ったのである。

Ø  三人衆はこれに不満を抱く順慶と興福寺に対して久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだのである。

   折りしも、覚慶が興福寺を脱出して越前に逃れたことが発覚したため、三人衆が守護である久秀の責任を追及し、一方の久秀も三好氏当主である義継が三人衆と対立するとこれを煽り、逆に三人衆討伐を計画するようになった。

   かくして、12月21日に三人衆の軍が大和に侵攻を開始し、筒井順慶と共に久秀の居城のある多聞山城(現在の奈良市法蓮町)を包囲した。

   しかし、多聞山城は強固で松永軍の士気も高かったために2年にわたる睨み合いを続け、あるいは畿内の各地で衝突を続け、次第に小康状態に陥った。

Ø  ところが、この戦い中に三人衆は義継を拘禁していたが、永禄10年(1567年)2月、義継は三人衆の下を脱出、久秀と和睦し、三人衆に対し共闘するようになる。

Ø  この動きに三人衆は大規模な攻勢をかけるべく、4月に大和へ出兵した。松永軍は多聞山城に再度入り、三人衆・筒井軍は興福寺大乗院の裏山である大乗院山などに陣を構えた。やがて、山を降りて東大寺大仏殿に本陣を移し、ここを拠点に多聞山城を攻撃した。

Ø  双方とも相手を攻撃するために周辺各所に火を付けた為、東大寺や興福寺の一部塔頭や般若寺が次々に炎上した。

Ø  7月23日には東大寺の戒壇である戒壇院が炎上し、松永軍はその焼け跡に陣地を構えた。これによって奈良時代以来の大寺院である東大寺の中に敵対する両者が陣地を築いて睨み合うという異常事態となったのである。

   そして、永禄10年10月10日(1567年11月10日)、ついに久秀は大仏殿にいる三人衆・筒井連合軍に総攻撃をかけたのである。

   子の刻に大仏殿は三好方の陣からの出火により火の手に包まれ、東大寺の全域が戦場と化した。

Ø  やがて、三人衆軍・筒井連合軍は退却したものの、以後も大和国内をはじめとする畿内各地で戦闘が続いた。

Ø  しかし、永禄11年(1568年)9月に足利義昭を擁立した織田信長が上洛し、永禄の変とその後の混乱は収束した。

Ø  東大寺は二月堂・法華堂・正倉院・南大門・鐘楼・転害門・念仏堂などが焼け残り、被害そのものは治承・寿永の乱(源平合戦)の時に行われた平重衡の南都焼討よりも少なかったが、類焼によって炎上した前回とは違い、東大寺そのものが戦場になり、なおかつ大仏殿に直接火がかけられたと言う事実は内外に衝撃を与えた。

Ø  更にこの時の火災で打撃を受けた大仏そのものも後日首が落下してしまい、修理費用も無くそのまま放置され、大仏と大仏殿の両方の再建が行われたのは、120年以上も後の1680~1700年代(貞享・元禄年間)のことであった。