この兵火による惨状を『平家物語』では「天竺・震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず」と語り、この知らせを受けた右大臣九条兼実は日記『玉葉』に「凡そ言語の及ぶ所にあらず。筆端の記すべきにあらず。余是の事を聞き、心身屠るがごとし。

   (略)当時(現在)の悲哀、父母を喪うより甚し」と悲嘆の言葉を綴っている。生き残った大衆は春日山に逃げ込み、平重衡は討ち取った30余りの首級を現地で梟首して29日に帰京したが、この時持ち帰られた南都大衆の首級49余りは南都の焼亡を知った朝廷の動揺により、謀叛人として獄門にかけられる事なくことごとく溝や堀にうち捨てられたという。

   戦後

   年が明けて治承5年(1181年)になると清盛は直ちに東大寺や興福寺の荘園・所領を悉く没収して別当・僧綱らを更迭、これらの寺院の再建を認めない方針を示し、再び南都に兵を派遣してこれを実行させるとともに逃亡した大衆の掃討を行わせた。

   ところが、その後間もない正月14日に親平氏政権派の高倉上皇が崩御、続いて閏2月4日(1181年3月20日)には清盛自身も謎の高熱を発して死去し、人々はこれを南都焼討の仏罰と噂した。

   また、東国の源頼朝の動きも不穏との情報が入ってきたために、父清盛に代わって政権を継承した平宗盛は、3月1日に東大寺・興福寺への処分を全て撤回した。

   これにより両寺の再建へ向けた動きが具体化し、3月18日には南都の被害状況を把握するための実検使として、興福寺へは関白および藤原氏の氏長者(藤氏長者)である藤原基通の家司藤原光雅と勧学院別当藤原兼光が、東大寺へは後白河法皇の院司蔵人である藤原行隆が派遣された。

   南都に赴いた行隆は重源という僧侶と出会い、東大寺再建の必要性を説かれる。帰京した行隆の報告を受けた法皇は重源を召して再建実務の総責任者である大勧進職に任命、直ちに東大寺の再建に取り掛かることになった。

   東大寺の再建はまず大仏の修復から始められた。その費用の調達にあたっては、奈良時代に大仏が造られた時の行基の先例に倣うとして、重源自ら畿内各地を勧進して回り、貴賤を問わず多くの人々からの喜捨を受けた。

   そして来日していた宋人陳和卿らの技術協力によって文治元年(1185年)6月に大仏の修復が完了し、同年8月に行われた開眼供養会では後白河法皇が自ら大仏の開眼を行った[。続いて大仏殿の再建が始まったが、戦乱による諸国の疲弊や用材の伐採予定地の地頭の妨害などによって再建は難航した。

   建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御した後は東大寺復興に強い関心を抱く源頼朝が再建支援の中心となり、鎌倉幕府による協力のもと完成した大仏殿は建久6年(1195年)3月に後鳥羽天皇や源頼朝も臨席して落慶供養が行われた。

   東大寺の復興事業はその後正治元年(1199年)には南大門が再建され、建永元年(1206年)に重源が没した後も安貞元年(1227年)に東塔、嘉禎3年(1237年)には講堂が再建されるなど、半世紀以上にわたって続けられた。

   一方、興福寺も実検使の派遣直後から復興に向けた体制が整えられ、過去の再建の例にならって朝廷・藤原氏(氏長者・藤原氏有志)・興福寺の分担による再建が決定し、罹災の約半年後、治承5年6月に再建工事が開始された。

   その間、文治2年(1186年)9月、当時逃走中だった源義経を捕縛するため、京都に駐在していた鎌倉の御家人比企朝宗が兵を率いて再建工事中の興福寺に乗り込み、義経を匿った僧らの住坊を襲撃した事件や、翌文治3年(1187年)3月、東金堂に所属する大衆が当時仁和寺の末寺であった飛鳥の山田寺に乱入し、講堂本尊の薬師三尊像を強奪して東金堂の本尊とした事件、さらにその翌年、文治4年(1188年)3月には再建中の南円堂が大風により倒壊するなどの事故はあったものの、建久5年(1194年)には主要な建物やそこに安置される仏像の多くが完成した。