義晴は畠山義総や武田元光などの諸大名に出兵を命じる一方で六角定頼と共に長慶と三好政長の和睦に向けた工作を続け、夫人の慶寿院と嫡子の義輝を八瀬に避難させた。

   この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている。

   長慶に名指しされた三好政長は4月に丹波国に蟄居していたが、細川晴元の意を受けて京都へ進出。

   

7月14日には和談は不首尾に終わり長慶と政長は妙心寺付近で戦うも小競り合いだった。

   7月28日、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、摂津と山城の国境の山崎から撤退した。

   結局十七箇所の代官職は与えられず、8月に摂津越水城に入城した。これまで三好氏の当主はあくまでも阿波を本拠とし、畿内において政治的あるいは軍事的に苦境に立つと四国に退いて再起を期す事例があったが、長慶はこの入城以降は生涯阿波に帰国することなく、摂津を新たな本拠として位置づけることになる。

   この後の長慶は摂津守護代となり幕府に出仕するようになるが、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、主君の晴元に脅威を与えるほど長慶の実力は強大なものとなっていた。

   天文9年(1540年)11月22日、丹波国の波多野稙通(秀忠)の娘を妻に迎えた。

   ただしこれは『三好家譜』の記述であり同書は誤りが多いために必ずしも信頼できないが、長江正一によると嫡子の義興は天文11年(1542年)生まれであり、天文10年(1541年)に長慶が摂津一庫城(山下城)を攻めた際に波多野軍も共同しているため、長慶の結婚は天文9年(1540年)から天文10年(1541年)の間と推測されている。

   天文10年(1541年)9月頃に名を利長から範長と改名、この年の6月に長慶は独自に菟原郡都賀荘から段銭徴収を行い、晴元から停止を命じられている。晴元は自らの側近である垪和道祐を段銭徴収の責任者としていたためである。

   だが、長慶はこれを無視したために彼の影響下にあった摂津国下郡(豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡)では長慶と道祐から二重の段銭徴収を命じられる事態が相次ぎ、長慶は晴元との対立を深める要因となった。

   だが、下郡の中心都市であった西宮を管轄下に置く越水城を支配する長慶の影響力は次第に下郡の国人や百姓に及びつつあった。

   また、7月19日には三好政長と共同して摂津国人の上田某を攻めて自害させ城を奪った。

   8月12日には細川晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の塩川政年(国満)を三好政長や池田信正らと共に攻めた。

   しかし政年の縁戚である摂津国人・三宅国村や伊丹親興、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は背後に敵を受ける事となって10月2日に越水城に帰還した。

   この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である富松城(尼崎市)を逆に落とした。

   細川晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍・義晴と晴元を追うなどしたため、河内守護代の遊佐長教は長政が擁立した河内守護の畠山政国を追放してその兄である畠山稙長を迎え、長慶に味方することを表明した。

   このため翌天文11年(1542年)3月17日、長政は稙長のいる河内高屋城を攻撃しようとして太平寺で戦ったが、政長・長慶の援軍が加わった長教に敗れ討死した(太平寺の戦い)。

   太平寺の戦いから9ヵ月後の12月、細川高国の従甥に当たる細川氏綱が畠山稙長の支援で高国の旧臣を集めて蜂起、翌天文12年(1543年)7月25日に堺を攻撃したが、細川元常の家臣・松浦肥前守、日根野景盛らに敗れて和泉国に逃れた。

   長慶は8月16日に細川晴元の命令で堺に出陣、氏綱と戦っている。

   この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年(1544年)6月18日に父の13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている。