この婚姻の背景として尚通の正室の実家である徳大寺家と細川高国が縁戚関係にあり、高国の仲介で婚約が成立し、大物崩れ後も足利将軍家と近衛家の利害の一致からそのまま婚姻が実行されたと言う。

   また、尚通の娘(夫の没後は慶寿院を名乗る)が将軍の御台所としては日野富子以来となる男子(義輝・義昭・周暠)を儲けたことは、血縁的な後ろ盾が乏しかった義晴にとっては大きな力となった。

   ただし、この頃の義晴は体調を崩していたらしく、天文3年の前半にはほとんど政務活動が停止していたほか、天文5年(1536年)8月には将軍職を嫡男の菊幢丸(後の足利義輝)に譲る意向を示した(『鹿苑日誌』『厳助往年記』)。その際に菊幢丸に代わって公事を行う「年寄衆」を指名している。

   その後、義晴は引退を撤回したが、その8名(大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆・朽木稙綱)の年寄衆は、後に内談衆と呼ばれて義晴政権の政権運営を支える側近集団となった。

   なお、天文4年(1535年)に長年仮名を名乗り続けてきた細川六郎が義晴の偏諱を受けて「細川晴元」と名乗り、天文6年(1537年)には六角定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えた。

   当時、京都に出仕していた大名は晴元と同族の細川元常(和泉守護で三淵晴員の実兄)しかおらず、近江在国の定頼を加えたこの3人と義晴の協調の下で一時的な安定を迎えることになる。

   その後、天文10年(1541年)10月に細川晴元と木沢長政が対立すると、義晴は双方の支援要請を断ったが、最終的には晴元側として近江坂本に逃れ、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いで長政が戦死すると、その首は義晴の下に送られている。

   これを受けて3月に京都に帰還して新しい御所の造営に着手した。また、天文12年(1543年)には細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げるも、義晴は晴元支持の姿勢を変えなかった。

   将軍職譲渡と最期

   ところが、天文15年(1545年)に入って畠山政国が氏綱方につくと戦況が変わり、9月には晴元は丹波国に落ち延び、義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入った。

   一方、畠山政国の重臣である遊佐長教は秘かに使者を義晴に派遣して氏綱への支持を求めた。晴元の苦境をみた義晴は晴元を排斥しようと画策する。

   しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休や安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、11月に北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、近江坂本に避難した。

   この時の12月19日に嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後に義輝と改名、以降「義輝」と記載)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲った(『光源院殿御元服記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。

   ところが、この際に2つの大きな出来事が発生している。

   1つは当時の室町幕府の慣例では将軍または後継者が元服する際には、父である将軍か管領が烏帽子親を務めることになっており、近年の研究では管領の常設はなくなったとされている戦国期の室町幕府においても元服の際には管領の任命が行われていた。

   ところが、義晴は三管領の家ではない六角定頼を管領代に任じて義輝の烏帽子親としたのである。

   これは当時、晴元も氏綱も近江坂本に駆けつけられる情勢に無かった(逆にいずれかが坂本に居た場合にはその者が管領に任命されていた筈である)ことに加え、晴元と義晴の関係が悪化し、氏綱に対しては晴元の舅である六角定頼が抵抗したため、最終的には義晴を庇護する定頼への配慮から彼を烏帽子親に任じる選択をした考えられている。

   なお、当時の坂本には定頼だけではなく、氏綱派の遊佐長教もおり、氏綱を烏帽子親にすべく画策していたが、晴元派の六角定頼が烏帽子親となったため、義輝の元服の儀には欠席し、翌日の将軍宣下の儀に畠山政国の名代として参列している。

   もう1つは義晴自身が右近衛大将に昇進していることである。