7月26日、亀王丸は学習開始の儀式「読始」を行い、28日には朝廷から高国と東坊城和長によって考えられた義晴の名を与えられ、従五位下に叙された。

   8月9日、元服前の儀式である涅歯(鉄漿で歯を黒く染める儀式)を行い、同月29日には内裏へ代始の参賀を行った。

   また、高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に正五位下・左馬頭に任ぜられた。

   12月24日、義晴は新たに御所と定められた三条御所に移り、元服を行った。元服は足利義政の故実に則って行われ、高国が加冠役を務めた。

   翌25日、朝廷から征夷大将軍に補任され、第12代将軍となった。

   また、同日に政務をとり始めるための儀式「沙汰始」、「評定始」、「判始」が執り行われた。

   とはいえ、11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、飯川国信や大舘常興に代表される義澄を支持していた幕臣(中には義晴と共に播磨に下っていた者もいた)、播磨国に所領を持つ奉公衆三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる佐子局(後に清光院)(義晴の養育係)らが政務の運営にあたった。

   近江幕府(桑実寺など)

   大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川六郎(後の晴元)は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。

   さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通や柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527年)2月に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川六郎らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。もっとも、この間にも六郎と義晴の間で交渉が行われており、10月には義晴が京都に帰還し、翌年1月には三好元長が義晴が滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している。

   ところが、享禄元年(1528年)に入ると状況が悪化し、義晴は朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。

   しかし、六郎側の工作で義維側に寝返る幕臣もいた。ただし、奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など幕府を支えた人々の多くは朽木に従い、朝廷も享禄3年(1530年)に義晴を権大納言に昇進させ、地方の大名も義晴との関係を維持していた。

   そして、享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。

   戦後、今度は六郎と元長が対立、天文元年(1532年)に元長が六郎と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。

   それは朽木の時とは違い、奉公衆・奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった(ただし、朽木の段階でかなりの幕臣が同行しており、その人々を基盤としていたとする見方もある)。

   また、この頃、義晴は桑実寺の縁起絵巻の作成を三条西実隆と土佐光茂に依頼しているが、京都を離れていても京都と強いつながりをもっていたのはこの頃の義晴の強みでもあった。

   また、「享禄」「天文」の改元を行う際に改元を要請する武家執奏とそのための費用献上を行ったのは義晴であった。

   そして、足利義維を強く支持した大名は細川晴元(六郎)のみで、他に関係を持ったのは畠山義堯と大内義隆および摂関家の九条稙通くらいで、細川氏の家臣(内衆)の中でも柳本賢治や松井宗信のように義晴との和解を主張する者もいた。

   そして、何よりも義維は細川晴元が京都の実権を握った後も治安の悪化によって上洛できなかった(=将軍として在京できる条件が揃わなかった)ために、義晴を解任して将軍宣下を受けることが出来なかったのが、彼が堺公方に留まって中央政権になり得なかった最大の要因であった(後に義維の息子・義栄が上洛しないまま将軍宣下を受けているが、この時は将軍職は空席)。

   義晴・晴元体制の成立

   天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て六郎と和解し、9月に帰京した。

   また、この直前の6月に近衛尚通の娘を妻に迎えた。