戦端は6月12日に開かれた。近江から来た政長方の近江朝妻城主新庄直昌が江口で戦死したが、政長と晴元らは六角軍の来援を期待して守勢を通した。

   六角定頼は更に増兵を決定、子の義賢に率いられた近江軍1万は、6月24日に山城と摂津の国境付近の山崎(山崎から江口城までは半日の行程)に到着する見通しとなった。

   『足利季世記』には、「川舟を 留て近江の勢もこず 問んともせぬ 人を待つかな」というこの間の政長の和歌を載せているが、政長のこうした危惧を長慶は見逃さなかった。

   24日、六角軍が江口城に到着する直前をとらえ、長慶は十河一存と東西から江口城の政長を急襲した。既に長陣で疲弊していた政長軍は江口城を支えることができず、政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にした。

   一説に、政長は淀川を南へ下り榎並城に避難しようとして淀川で水死したとも言われている。

   戦後の影響

   江口城における政長の戦死により、政長を支援すべく三宅城にいた晴元は、丹波を経由して翌25日に戦わずして帰京したものの、長慶の追撃を恐れ、前将軍足利義晴・13代将軍足利義輝父子らを伴って近江の坂本まで避難した。

   これに随行した細川晴賢と細川元常の領国の和泉は、長慶の手中に落ちた。また、政勝は榎並城を放棄し瓦林城まで撤退、残った反長慶派の伊丹親興は居城伊丹城を三好軍に包囲され、翌天文19年(1550年)3月に和睦したため長慶は摂津の平定も果たした。

   政長と連携して晴元政権を支えていた茨木長隆も政長の死に伴って没落するが、その後長慶(細川氏綱)方へ帰順し、奉行人となった。

   勝利した長慶は氏綱を伴い7月9日に上洛、事実上京都を掌握した。しかし晴元・義晴らは坂本と京都東山を根城として長慶に抵抗、政勝と香西元成らも晴元と合流して京都への出兵を繰り返し、長慶も晴元らの迎撃及び彼らに呼応した外敵の討伐に当たった。

   以後数年間の長慶は山城と摂津を中心に戦闘を繰り返していくことになる。

 

 

   7「12代将軍足利義晴」

   足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 – 1546年)。

   第11代将軍足利義澄の長男。母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。これに対して将軍家で御末を務めていた「阿与」という女性が母親であったとする説もあり、母親の身分が低くて記録に残さなかった可能性も高い。

   西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。

   その最中の永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。

   しかし同年8月14日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。誕生直後に、亀王丸は義澄派であった播磨守護・赤松義村の元に送られて庇護下で養育された(『高代寺日記』『武家昇譜日記』)。

   永正10年(1513年)2月14日には、義稙陣営と義澄陣営(実質は亀王丸陣営)の和睦により、義稙の将軍職が確定した。なお、義晴は義稙の養子になったとする史料[4]もある。

   ところが、犬猿の仲である備前守護代・浦上村宗への反攻を目論む赤松義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、あろうことか永正18年(1521年)1月には敗戦。この敗戦の責により義村が強制隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上氏に渡ってしまった。

   永正18年(1521年)3月7日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。

   これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれることになる。

   7月6日、亀王丸は播磨から3万人の供勢を引き連れて上洛し、高国の歓待を受けた。その後、仮の御所として上京の岩栖院に入った。