長慶には氏綱・長教を中心に和泉の松浦興信、丹波守護代内藤国貞、大和の筒井順昭、池田長正を始め摂津国人の多くが味方に付いた。

   晴元・政長には茨木長隆・伊丹親興など少数の摂津国人と六角定頼ら周辺の大名が与同した。

   摂津戦線の攻防

   長慶は10月28日に摂津越水城を出発、政長の拠点である河内十七箇所へ進軍し、十七箇所の拠点で政勝が籠城する摂津欠郡の榎並城を包囲、そのまま越年して翌年の天文18年(1549年)2月18日に堺で長教と会談して協力を取り付け、26日に一旦尼崎に兵を進め十七箇所へ戻った。

   一方、政長は摂津国人の大半が長慶方となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り桑田郡から摂津北部へ侵入、猪名川流域を南下して川辺郡の塩川城(一庫城、山下城)で兵を増やし、1月24日により南の池田城を攻撃、伊丹親興の支援を受けて十七箇所へ迫った。

   しかし長慶は3月1日に榎並城の西側に位置する摂津中嶋城に兵を送り、政長派の細川晴賢(細川政賢の孫)がいる堀城と榎並城の中間の柴島城を攻めさせ、救援に来た政長を破り柴島城も落として榎並城に追った。

   政長は親興の居城伊丹城に退却、長慶は榎並城の包囲を続けたが、堅牢で兵糧も豊富にある榎並城は4月になっても落城する気配が無かった。

   4月初め、晴元は近江へ出向き六角定頼と結び欠郡への援軍派遣を取り付けると、政長と同じ道を通り丹波から北摂津、猪名川へと進軍、4月26日に塩川城に入ると、28日に武庫郡に出兵して西宮一帯に放火し後方撹乱した。

   翌29日には伊丹城の政長・親興軍も城から打って出て尼崎にて放火、5月1日には富松城も攻めたが落城させることは出来ず退却した。晴元の狙いは越水城と中嶋城の三好軍を分断し、榎並城にいた政勝を援護することだった。

   攻勢に出た晴元は、5月2日に三宅城の守将香西元成に命じ、味方の六角軍の来援に備えて芥川山城を攻めさせた。

   この城は摂津北東に位置する城で山城と摂津の国境付近にある重要拠点でもあり、城主の芥川孫十郎が長慶に与していたため政長と晴元は迂回行軍するしかなかったのである。

   しかし、香西元成の軍勢が惣持寺の西川原で三好長逸の軍勢に阻止されると、今度は5月5日に政長が伊丹城から三宅城へ入城、5月28日には晴元自身が塩川城から三宅城に入って政長を後援した。

   6月の戦況

   ここまでの経過で晴元軍は摂津の城を転々としながら戦場へ接近したが、単独で三好軍に挑めないため、三好軍を牽制しながら六角軍の来援を待つ姿勢を取っていた。

   一方の三好軍は、十七箇所近辺を平定しつつ榎並城を包囲していたが、城方が用意を整えていたため5月の時点でも落とせず、戦闘は長期化していった。

   6月になると戦況に変化が起こった。

   6月11日に政長が三宅城を出て江口城に入ったのである。江口城は北中島の東北端に位置し、中嶋城と柴島城の北東及び榎並城の北、三宅城の南にも位置する重要拠点で、淀川と神崎川によって三方を囲まれた要害の地だった。

   政長の出兵目的は、この江口城で中嶋城と榎並城の中間に立ち三好軍の妨害を図り、合わせて三宅城と榎並城の通路を確保して近江からの六角定頼の援軍を待ち、長慶と相対することだった。

   だが、江口城には弱点があった。北・東・南は川に囲まれた要害であるが、水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点もあったのである。

   長慶はすかさず江口城を包囲してその糧道を断ち、かつ江口城と三宅城で支援する細川軍との連絡を遮断するため、弟の安宅冬康と十河一存らの別隊を江口城北側に派遣、神崎川の支流別府川河畔の別府村(摂津市)に布陣させ、三宅城と江口城の連絡と退路を遮断して江口城を孤立させた。

   江口合戦