この時は小競り合いに終わったが、天文10年(1541年)には増長した木沢長政が造反し、政長の排除を訴えられた時も拒絶、京都郊外の岩倉へ逃れ、翌天文11年(1542年)に摂津芥川山城へ移り反撃、長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取っている(太平寺の戦い)。

   しかし反乱はなおも続き、天文12年(1543年)、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。

   この反乱は同年の内に治まったが、天文14年(1545年)には山城国で高国派の上野元治・元全・国慶3代と丹波国の内藤国貞らが挙兵、三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧した。

   天文15年(1546年)8月に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再挙兵、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを奪い取った。氏綱と畠山政国・遊佐長教らが手を結んだだけでなく、9月に上野国慶も再挙兵して京都へ入ったため晴元は丹波国へ逃亡する。

   この年の12月に将軍・義晴も滞在先の近江国坂本で嫡男・義輝を元服させた上で将軍職を譲るが、この際に六角定頼が管領代に任じられ、本来は管領が行うべき加冠役(烏帽子親)を務めた(『光源院殿御元服記』)。

   これは、従来は管領である晴元が出陣中であったため定頼が代行したと解されていたが、近年では文字通り管領が空席であった(=晴元は管領ではなかった)と解する説が出されている。

   この説によれば、当時の管領の職務は儀礼的分野に留まり、もし晴元が坂本に駆けつけられる状態であればこの元服の儀に先立って管領に任命された筈であるが、実際にはそれが不可能であったために近江の守護である定頼が管領代に任じられ、晴元は最後まで管領に任じられなかったとされる。

   いずれにしても、慣例に反して細川氏よりも家格が下がる六角氏の当主を将軍の烏帽子親にする行為は晴元の面子を踏みにじるものであった。

   また、義藤の元服の翌日に行われた将軍宣下の儀式に遊佐長教(氏綱派の畠山政国の重臣)が参列していることに注目し、氏綱も長教を通じて管領に就任して義藤の烏帽子親になろうと工作を図っており、もし氏綱が坂本に駆けつけられる状態であればこの元服の儀に先立って管領に任命された筈であるが、実際にはそれが不可能であったことと晴元の舅である定頼がこれに反対する意図で管領代として烏帽子親を務めたとする見方もある。

   やがて義晴父子も氏綱を支持に転じて、晴元と敵対する。

   これに対して晴元は11月に三好長慶の居城である摂津越水城から北の神呪寺へ移り、越水城で待機していた長慶と協議して翌天文16年(1547年)に反撃、摂津の細川氏綱方を打ち破り摂津を平定、7月21日に長慶が細川氏綱・遊佐長教らに舎利寺の戦いで勝利、義晴とも閏7月に定頼の協力で和睦して氏綱の反乱をようやく鎮圧した。

   だが天文17年(1548年)5月6日、かつて細川氏綱に寝返った摂津国人・池田信正を切腹させたことにより三好長慶と他の摂津国人衆の離反を招き、8月に三好一族の和を乱す三好政長討伐の認可要請を長慶から出されても拒否すると、10月には氏綱側へ転属した長慶に挙兵され、摂津榎並城を攻囲される。

   その榎並城で籠っていた政長の子・三好政勝を見捨てては畿内の国衆から見限られる恐れがある為、晴元は戦力で劣るまま摂津国江口において長慶らと戦う事となった。

   しかし、正面からの主力決戦を回避し、あくまでも六角軍の到来を待ってから決戦に臨もうとした為、機先を制せられた晴元の主力は戦わないまま敗北する(江口の戦い)。この戦いで三好政長・高畠長直ら多くの配下を失った晴元は追撃を恐れて、将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れた.。

   没落、晩年

   晴元や足利義輝ら現職の将軍、管領が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛、長慶が幕府と京都の実権を握った。

   近江へ逃亡した晴元は天文19年(1550年)に足利義晴が死去してからは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みたが成功せず中尾城を破棄(中尾城の戦い)。