ここまで三好元長の功績は抜群だったが、元長は柳本賢治と傍流の三好政長らと対立し、晴元も元長が細川高国との和睦を図ったことで不満を抱き賢治らの讒言を受け入れていた為、享禄2年(1529年)に憤慨した元長の阿波下向という事態を招き堺公方府の軍事力を低下させてしまった。

   高国も備前守護代の浦上村宗と結託して再起を図り挙兵、迎撃に向かった賢治は享禄3年(1530年)に高国の刺客に暗殺され、勢いに乗った高国・村宗らが摂津国へ侵攻して堺公方府を窮地に立たせた。

   享禄4年(1531年)になると細川高国に摂津国の大半を制圧された上、京都も高国派の内藤彦七に奪回され堺公方府は攻撃の危機に晒されるものの、同年2月に三好元長と和睦。

   3月に元長に高国軍の進撃を阻ませて膠着化に持ち込む(中嶋の戦い)と、6月4日(7月17日)には来援の赤松政祐(晴政)による高国への支援を装った騙し討ちが決め手となって、細川高国・浦上村宗軍を壊滅させた(天王寺の戦い)。

   戦後、高国には逃亡されるも6月5日には潜伏中の摂津国尼崎で捕縛し、8日には尼崎の広徳寺で自害させ、亡父の仇を討った。

   権力基盤の確立に向けて

   それまでの権力者だった細川高国を滅ぼした晴元だったが、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換。現将軍・義晴と和睦し、その管領に就こうとした為に三好元長と対立してしまう。細川京兆家の家督と管領の座さえ手に入れば、別に義晴が将軍のままでも良かったという事である。

   共通の敵・高国を滅ぼして僅か2ヶ月で内部対立が表面化した堺公方府であったが、高国討伐の功労者であった元長に対し、それを邪魔者と見る畿内の国衆が晴元の下に結集した。

   享禄5年(1532年)、晴元が肩入れする木沢長政を攻撃する元長を排除すべく、茨木長隆ら摂津国衆が策謀を凝らして本願寺第10世法主・証如に一向一揆の蜂起依頼を提言。証如の快諾で蜂起した一揆軍によって自らの手を汚す事なく元長を堺で敗死させただけでなく、不和になった足利義維の阿波国への放逐にも成功した(飯盛城の戦い)。長政の主君で、元長の支援を受けていた畠山義堯も巻き込まれ、一向一揆に討たれている。

   内部の反対派を排除し、将軍・義晴と和睦できた晴元は、蜂起したまま乱行を重ねた一向一揆軍の鎮圧に神経を費やした。

   一向宗の対立宗派であった法華宗とも協力して法華一揆を誘発させ、他にも領内で一向宗の活動に悩まされていた近江国の六角定頼とも協力して山科本願寺を攻めた(山科本願寺の戦い)。

   山科本願寺焼亡後、石山本願寺に移転した一向一揆と戦い、天文2年(1533年)に一向一揆の反撃に遭い堺から淡路国へ亡命したが、摂津池田城へ復帰して体勢を立て直し、天文4年(1535年)に和睦した(享禄・天文の乱)。

   天文3年(1534年)に木沢長政の仲介で三好元長の嫡男・三好長慶とも和睦して家臣に組み入れた。

   天文5年(1536年)、京都で勢力を伸ばした法華衆に対し、比叡山延暦寺・六角定頼と連合して壊滅させた(天文法華の乱)。

   同年に細川高国の残党を率いて敵対していた高国の弟・晴国も討ち取り畿内を安定させ、天文6年(1537年)に右京大夫に任官され、管領として幕政を支配した。

   なお、この年の4月19日には六角定頼の猶子となっていた三条公頼の娘が晴元に嫁いでいる。

   だが、一方で足利義晴が本来は敵方である晴元に対抗するために権力機構を整備したこと、六角定頼の幕府内での発言力が高まったこと、両細川の乱以前からの細川京兆家譜代の家臣(内衆)の多くが細川高国配下として運命を共にしたことによる京兆家の政治的ノウハウの喪失などによって幕政における細川京兆家の発言力が大きく低下したとする指摘もある。

   晴元政権時代

   天文8年(1539年)、上洛した三好長慶が同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い、晴元は政長に肩入れして長慶と対立したが、義晴と六角定頼の仲介で長慶と和睦した。