6「細川春元と台頭する三好氏」

Ø  主家細川氏の管領職争いのために畿内を転戦してきた阿波守護代出身の三好氏当主で細川晴元を管領に就けた最大の功労者である三好元長は一転、晴元から危険視され、享禄5年(1532年)6月には飯盛城の戦いで晴元と手を組んだ一向一揆に攻め込まれ、和泉顕本寺において自刃に追い込まれていた(享禄・天文の乱、堺公方も消滅)。

 

   細川 晴元(ほそかわ はるもと)は、室町時代後期(戦国時代)の武将・戦国大名。

   第34代室町幕府管領。山城・摂津・丹波守護。第17代細川京兆家当主。父は細川澄元、母は清泰院、嫡男は細川昭元。正室は三条公頼の長女であり、その縁から武田信玄、本願寺法主・顕如の義兄に当たる人物でもある。

   当時、畿内で内乱状態にあった細川京兆家を纏め、自らの政権確立と室町幕府管領職に就いたが家臣の三好長慶の反乱で没落、勢威を取り戻せないまま没した。実権を持っていた管領としては最後の管領である(ただし、管領就任を史実ではないとする説もある。詳細は後述及び管領項目参照のこと)。

   「晴元」という名は室町幕府第12代将軍・足利義晴の偏諱を受けたものであるが、義晴と敵対関係であった時期には「細川六郎」という通称を用いた。この項目での呼称は晴元で統一する。

   生涯

   高国との決戦

   永正11年(1514年)に細川澄元の子として誕生、6年後の永正17年6月10日(1520年6月24日)、同族の細川高国との争いに敗れ阿波国へ退去していた父の死去により、晴元は7歳で家督を継承した。

   ただ、細川京兆家の家督を巡る高国との争いを続けていた父は、高国に幾度も煮え湯を飲まされ続けたまま死去し、晴元の継承時も劣勢を覆せていない苦しい状況が続いていた。

   一方、仇敵の高国は将軍・足利義稙を追放、代わって足利義晴を将軍に擁立して挿げ替えを断行するなど事実上の天下人として君臨しており、反撃の機会は遠退いていた。

   だが大永6年7月13日(1526年8月20日)、従弟の細川尹賢からの讒言を信じた高国が配下の香西元盛を討った為に元盛の実兄(波多野稙通、柳本賢治)達に背かれ、勢力の内部分裂を自ら招いた。

   そんな収拾のつかない敵方の窮状につけ込むべく、13歳の晴元は三好元長に擁されて、同年10月に高国打倒の兵を挙げた。同年内には畿内まで進出し、高国に背いた波多野軍と合流した。

   高国と晴元の争いは、細川氏の家督を奪い合う私闘であるにも係わらず、高国は現職の管領である事を利用して将軍・義晴を擁立していたために、名目上の官軍を称する事が出来た。それでは晴元側は賊軍の扱いを受けてしまい、保身に奔る味方に離反される恐れを孕んでいた為、晴元側も義晴の弟・足利義維を擁立する事で備えている。

   そもそも大永3年(1523年)に足利義稙が阿波国撫養に下向してきた時に細川讃州家の助力を得ようとしたが、当時の晴元は10歳の少年であったため助力することかなわず、失意のうちに義稙は没した。

   その後、当時の阿波守護で晴元の従弟・細川持隆は阿波の細川館で、将軍継嗣としての義維と、細川宗家継嗣としての晴元を一緒に養育していた(ただし、近年になって馬部隆弘は持隆は晴元の実弟(澄元の次男)であったとする説を提示している)。

   大永7年2月12日(1527年3月24日)、高国との決戦に勝利(桂川原の戦い)。

   義晴を擁したままの高国を近江国へ追い落とすと、和泉国堺を本拠とした晴元は、都落ちにより実態を失った高国政権に替わるべく、義維を将軍に戴く「堺公方府」という擬似幕府を創設した。