大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が10月に家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。一段落した12月24日には岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上した。

   永禄12年(1569年)も大和平定を継続し、対する順慶は没落を余儀無くされていく。またこの年の本圀寺の変時には岐阜に滞在しており、事件の際には信長と共に上洛し駆けつけている。

   元亀元年(1570年)、信長の朝倉義景討伐に義継や池田勝正らと共に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。また、同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。

   以後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて足利義昭に通じたと見られる(義継・久秀共に名目上は将軍義昭の幕臣であり、信長とはあくまで協力関係にあり従属する義理も無かったとも言えるが)。

   元亀2年(1571年)の時点で甲斐国の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。

   また三好義継と共に和田惟政や筒井順慶としばしば争いを起こしているが、8月4日の辰市城の戦いで筒井方に大敗し、竹内秀勝らの有力な家臣を失っている。

   元亀3年(1572年)、ついに久秀は信長に対する敵意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に敵対した。

   しかし翌元亀4年(1573年、天正に改元)4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死し、武田氏は撤兵。

    7月に足利義昭が信長に敗れ追放(槇島城の戦い)。11月に三好義継も信長の部将・佐久間信盛に攻められ敗死(若江城の戦い)。

   12月末に余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。

   翌天正2年(1574年)1月には岐阜に来て信長に謁見、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが、目立った動きは無い。

   最期

   天正5年(1577年)に上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。

   信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(『信長公記』)。

   信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。

   佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した(『川角太閤記』)。

   織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。首は安土へ送られ(『多聞院日記』)、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った(『大和志料』)。

   享年68歳(一説に70歳とも)。

   10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であったことから、兵は春日明神の神罰(神仏習合参照)だと噂した(『信長公記』)。

   細川 隆是(ほそかわ たかよし)は、戦国時代の武将。大内氏、足利将軍家の家臣。官位は宮内少輔。

   略歴

   細川氏の一族とされるが、詳しい系譜は不明である。父・細川是久(よしひさ、?-1543、宮内少輔)の代から大内氏に仕えており、元服時に主君・大内義隆の偏諱を受けて隆是と名乗る。

   天文12年(1543年)、義隆の養嗣子・大内晴持の陣没に関連して父・是久が亡くなった(晴持と同じく溺死か)のに伴い、家督を継承したものと推測される。