やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。

   永禄9年(1566年)には三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。

   2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆は和泉国堺を襲撃。2月17日、久秀は畠山軍とともに三人衆と同盟者の大和国人・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うが(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣し、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流した。高屋城では三好義継の被官である金山氏(金山信貞か)が久秀へ内応を図るが高屋衆に阻止され失敗し、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀は5月30日に堺から逃亡し、数ヶ月間行方不明となった(『永禄以来年代記』)。

   高政は三人衆と和睦し、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。

   ところが、永禄10年(1567年)2月16日に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰した。

   4月18日に三人衆が大和へ出陣。久秀は長い対陣の末に10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちた。茶人でもあった久秀は、近辺の松屋久政の手貝屋敷となっていた茶室・珠光座敷が失われるのを惜しみ、進攻に先立ち、松屋の椿井邸宅に解体して避難させた(『松屋会記』)。

   一般的には久秀の命によるとされているが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説ある。松永久秀軍による兵火の残り火が倉庫に燃えつき、そして法華堂から大仏殿回廊にまわり本殿に燃え移った失火であると、同日の奈良での記録がある(『大乗院日記』)。

   その一方、ルイス・フロイスの『日本史』では、この出火は三好方のキリシタンの放火によると記述されている。

   三好義継は2月28日付で南山城国人の椿井氏に宛てた書状で、三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、また久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、これを見離せず鞍替えしたと述べている。

   実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆や阿波三好家(三好長治)とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。

   しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。永禄11年(1568年)になっても三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続、6月29日に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。

   多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年(1566年)の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀への助力を伝えている。

   信長の時代

   永禄11年(1568年)9月、足利義昭を擁立した信長は上洛に成功し、信長の上洛に協力した久秀は、当初は信長の同盟者の立場にあった。

   10月2日には信長に対して人質と名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出した。

   久秀は幕府の有力な構成員となり、大和一国の支配を認められた。三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、足利義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。

   この後も三好義継、松永父子は相伴衆や御供衆に任じられた義昭の「幕臣」としての京での活動が記録に残っている。