こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。

   しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない。

   また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。

   畿内の覇権をめざして

   永禄4年(1561年)11月には三好義興と共に六角義賢と京都付近で戦う(将軍地蔵山の戦い)。

   永禄5年(1562年)に三好軍を結集させ河内へ出陣し、5月に義賢と結んだ河内国の畠山高政を打ち破り(久米田の戦い、教興寺の戦い)、紀伊国へ追放している(6月には義賢と和睦)。

   9月に長慶に逆らった幕府政所執事の伊勢貞孝・貞良父子を討伐するなど功績を挙げていく。

   同年に大和と山城の国境付近に多聞山城を築城・移住し、大和国人・十市遠勝を降伏させ、永禄6年(1563年)1月には多武峰衆徒と戦うが苦戦し、足利義輝に仲介を依頼している。

   この時、和睦を仲介していた義輝はそれに応じない多武峰側に不快感を示していたという記録(『お湯殿の上日記』)があり、心情的に久秀側擁護に回っているとも解釈できる。

   敵対時には久秀が義輝の境遇を「天罰」と罵り、また永禄年間に曼殊院と松梅院との相論を巡り義輝と久秀が激しく口論を行う姿が記録される(『左衛門督局奉書案』)など、当初は険悪な関係にあったと思われる両者だが、義興・久秀が幕臣として義輝と接する機会も増え、決して常に対立していた関係ではなかったとも言える。

   この年の12月14日、家督を嫡男・久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。

   久秀が勢力を増加させていく一方で、主君・三好長慶は弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などの不幸が重なった。

   一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている。

    また岩成友通に宛てた書状では、義興が病に倒れたことに心を痛め、改めて三好家に忠誠を誓い討死せん覚悟があることを伝えている。

   永禄7年(1564年)5月9日、三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。

   7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えた。

   永禄8年(1565年)5月19日、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、室町御所の足利義輝を襲撃して殺害する(永禄の変)。

   この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和国にいることが多く、事件当日も大和国におり参加していない。

   また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた還俗前の足利義昭の書状から、久秀は事件直後に義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。

   義継・久通・三人衆ら襲撃犯が義輝の子を懐妊していた侍女や弟の周暠を殺害したことに比較すると温情的な処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える。

   一方で、久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、殺害そのものは容認していたのではないかとも推測される。

   久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭を庇護してそれを将軍に据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。

   久秀は直後、キリシタン宣教師を追放する。 しかし、同年8月2日に弟・長頼が丹波国で敗死して三好家は丹波国を喪失。