永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。

   最期

   この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。

   しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊頭義元、諏訪飛騨守三將)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。

   享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。

   また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。

   三好長逸は行方不明となり、三好宗渭は既に死去していた。

   結果、三好三人衆は完全に崩壊した。

   文芸における岩成友通

   慶応3年(1867年)、落合芳幾によって描かれた『太平記英雄伝』という書物に岩成友通が描かれている。この作品は、戦国時代に活躍した武将達を題材にした作品である。

   将軍・義輝を三好政康や松永久秀と共に殺害し、信長に降伏した後、再度蜂起し細川藤孝に討たれたなどのことが紹介文として浮世絵に添付されているが、居城が「青竜寺城」になっていたり、討ち取った武者が「津川権平」という名前になっていたりと誤謬が多い。

   また名前も「岩成左道」(いわなりすけみち)と表記されている。

   しかしながら、三好三人衆を題材とした絵画は非常に貴重である。この浮世絵における友通は荒々しい髭を蓄え、敵を組み伏せている武者として描かれており、これは作者のイメージに過ぎないものの、江戸時代末期における岩成友通に対する世間のイメージが反映されていると評されている。

    

   松永 久通(まつなが ひさみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。松永久秀の嫡男。

   天文12年(1543年)、三好氏の家臣・松永久秀の嫡男として誕生。早くから父に従い、永禄6年(1563年)に家督を譲られて大和多聞山城主となる。同年閏12月に従五位下右衛門佐に叙位・任官する。

   翌永禄7年(1564年)6月22日には主君・三好長慶の甥で養嗣子の三好義継に従い上洛、23日に室町幕府13代将軍・足利義輝と謁見したが、永禄8年(1565年)、父に代わり三好三人衆や義継と共に二条御所にいた義輝を暗殺した(永禄の変)。

   同年から父と三人衆の内戦が始まり、永禄9年(1566年)5月から父が姿をくらますと多聞山城の守備に徹し、永禄10年(1567年)4月に父が復帰するまで三人衆派の筒井順慶と大和で戦った。

   永禄11年(1568年)、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、父と共に信長に降伏して所領の大和を安堵された。

   その後、信長包囲網が敷かれると父と共に信長に対して反逆するが、天正元年(1573年)に多聞山城を織田軍に攻められ再び降伏した。

   天正3年(1575年)7月、十市遠勝の娘おなへ(御料)を妻に迎え龍王山城に移ったが、大和守護の原田直政の命により、天正4年(1576年)3月に妻の叔父である十市遠長の十市城を攻め落とした。

   同年5月の石山本願寺攻め(石山合戦)に参加し、天王寺の戦いで原田直政は戦死、一時は久通も戦死したとの噂が流れたという(『多聞院日記』)。

   天正5年(1577年)10月、再び父が信長に対して謀反を起こした時もこれに従って信長に反抗するも、父と共に信貴山城で自害した(信貴山城の戦い)。信貴山城から脱出し、大坂方面へ落ち延びる途中で雑兵に殺されたとする説もある(『老人雑話』)。

   織田家に人質として預けられていた子が2人(14歳と12歳だったという)いたが、信貴山城落城前に京都六条河原で処刑されている(『兼見卿記』『信長公記』)。