正矩は藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改め、殖産興業を推進するなど藩政改革を推し進めた。

   しかし蔵米制への移行は多くの藩士にとっては減収となり怨まれ、また美作自身の贅沢好きで傲慢な性格から悪感情を持たれ、藩主光長の異母妹お勘を嫁にしたことものちに誤解を生むきっかけとなった。

   越後騒動

   延宝2年(1674年)、光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。光長は既に60歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟永見長良(永見大蔵)、光長の甥永見万徳丸(光長の異母弟永見長頼の子)、そして同じく光長の甥にあたる小栗正矩の次男大六(掃部)、松平義行(尾張徳川光友の次男)であった。

   評議の結果、永見大蔵は既に40歳を越える高齢であり、15歳の万徳丸を世継とすることで決まった。万徳丸は元服して4代将軍徳川家綱から一字をもらい綱国となり、三河守に任官した。そして、綱国の守役として、正矩派の安藤九郎右衛門が付けられた。

   世継ぎの選定は、光長と正矩一派によって進められ、本繁ら他の重臣は蚊帳の外に置かれた。そのため、本繁や本多七左衛門などが反発した。正矩は光長に、本繁を大老に昇進させるよう進言し、懐柔を図った。

   しかし、正矩の独裁への反発は収まらず、本繁らは正矩が子の掃部を藩主の養子として1万石を分知する計画であると吹聴し、その排除を訴えた。延宝7年(1679年)1月、反正矩派は「お為方」を称し、およそ890名が永見長良と荻田本繁に誓紙を提出した。

   1月7日夜、お為方の530人あまりが正矩邸の門外まで押しかけたが、正矩は堅く門を閉じて取り合わなかったため引き揚げた。

   本繁は正矩の謀反を光長に訴え出たが、逆にお為方の騒動を鎮めるように命じられ、本繁らの仕掛けた政変は失敗に終わった。

   事件が江戸幕府の知るところとなると、大老酒井忠清は穏便に済ませようとした。同年10月、越後家親戚筋の松平近栄松平直矩(光長の従弟)が藩の相談役となり、正矩は騒動の責任をとって家老を辞職、そして重臣で中立を保っていた片山主水が藩政を見るという裁定を下した。

   だが、お為方は収まらず、正矩が幕府裁定を偽作したと主張した。10月19日、幕府はお為方の主立った人物である永見長良、荻田本繁、片山外記、中根長左衛門、渡辺九十郎の5人を評定所に呼び出した。

   その結果、お為方は家中に誓紙を取り徒党をなし、雑説を流布し家中人心を惑わした罪として5人は他家預かり、あるいは追放となった。

   本繁は松江藩主・松平綱近にお預けとなった。本繁は、縁戚が幕臣にもいるため軽い処分で済むと思っていたので、国許の家老茂呂弥左衛門らへの書状に「驚くべきに存じ候」と書き送っている。

   こうして本繁は、子の民部、久米之助と共に松江に流され、妻と娘二人は滝川利錦に、妹は神尾守勝(本繁の実弟)に預けられた。

   しかし、本繁らの追放後も、高田藩の騒動は収まらなかった。藩に残ったお為方は、処分は正矩が酒井忠清に賄賂を贈った結果の片手落ちだと主張した。

   延宝8年(1680年)5月、将軍家綱が死去し、綱吉が5代将軍となると、酒井忠清は大老を辞職し、綱吉派の老中堀田正俊が幕閣の実力者となった。

   そこでお為方は正俊に再審を運動し、将軍の越後騒動親裁を引き出すことに成功した。

   天和元年(1681年6月21日、綱吉は「お為方」の永見長良と荻田本繁、「逆意方」の小栗正矩を召し、みずから裁決を行った。

   綱吉は、まず正矩の横暴について長良と本繁に問い、ついで正矩に弁解させた。さらに長良と本繁を尋問して裁判は終わった。

   この間、僅かに30分であった。

   翌6月22日、評定所で判決が下された。正矩父子は切腹となったが、長良と本繁は八丈島流罪となり、両派多数が処罰された。

   さらに6月26日、藩主光長は家中不行き届きを理由に改易され、高田藩そのものが取り潰されてしまった。