松井田城

   天正18年(1590年)3月28日から4月20日まで続いた。

   松井田城攻撃軍の編成 約35,000人

Ø  西部(追手)上杉景勝 約10,000人

Ø  東部(搦手)前田利家前田利長 約18,000人

Ø  北部 約7,000人(松平康国康勝 約4,000人、真田昌幸信幸幸村) 約3,000人)

   松井田城守備軍 約2,000人(城主 大道寺政繁

   北方隊は松井田城攻略に取り掛かった。

   3月20日に総攻撃が行われたが、守る大道寺勢はこれを防いだ。北方隊は城を包囲し、周辺地域に放火し、城塞を削るように攻撃を続けたが、城方の必死の抵抗により攻城は遅々として進まなかった。

   北方隊は松井田城は包囲したまま、周辺の城塞を攻略してまわった。

   一方の東海道方面では山中城が半日で落城したため、予想以上に小田原包囲が早まることとなり、北方軍は秀吉から松井田城攻略の督促を受けている。

   焦った北方軍は攻城の勢いを増した。守将の政繁は嫡子を脱出させ、自らは激しく抵抗するも、連合軍の猛攻の前に廓をひとつ、またひとつと落とされ、水の手を断たれ、兵糧を焼かれ、総攻撃から一か月後の4月22日に終に降伏開城した。以降、政繁は北方隊の道案内をすることとなった。

   浸透制圧

   前後して北方隊は4月17日頃に国峰城、宮崎城[54]の諸城、厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月23日)、松山城(5月22日)、その他西牧城石倉城など上野・武蔵北西部の各城を攻め落とした。

   各城はそれぞれ主力や当主自身が小田原城に籠城しており、留守を預かる程度の兵や城代家臣、近隣領民などしか籠城していなかったため、戦意が高かったとは言い難かった上、圧倒的な軍事力の差を前にしては降伏開城もしくは敗北する外の選択肢が無かった。この間に石倉城で松平康国が戦死している。

   南方からの加勢

   一方、秀吉は圧倒的多数で完全包囲した小田原城の包囲勢から主に徳川勢を主力として兵力を抽出し、北方隊を助ける部隊を編成し、武蔵に進撃。前出の相模国玉縄城(4月21日)や江戸城(4月27日)などの武蔵の諸城を次々に陥落させた。

   次にその戦力を二手に分け、片方は下総国方面に向かわせた。浅野長政や徳川家臣の内藤家長らによる下総方面軍は小金城(5月5日)、臼井城(5月10日)、本佐倉城(5月18日)と次々と落とした。

   このあまりの急進撃に秀吉からは浅野に対して、敵である房総諸将の不甲斐無さを詰った上で「房総諸城の攻略は(あまりに簡単過ぎて)戦功として認めない」とする書状が送られたほどであった(5月20日付、「浅野家文書」)。

   もう一方の軍は武蔵国方面に侵攻し要衝である河越城を攻めたが、河越城の本来の守将は先に松井田城で降伏した大道寺政繁であり、城は政繁の子(養子)の直英(大道寺隼人)が大道寺氏の守備部隊で守備していたため、政繁の降伏を受ける形で河越城も降伏開城した。

   以降の大道寺氏の軍は秀吉方の道案内を務め、各城攻めにも加わっている。後述の岩付城5月20日に徳川勢の働きもあって落城した。

   これら房総・武蔵の諸城の異常な速さでの陥落の理由は、各城の兵力のほとんどは小田原城の籠城戦のために引き抜かれ、当主や城主自身も小田原城籠城に参加していたために、どの城も最低限の守備兵すら確保できない状態での籠城戦となったためである。

   例を挙げると、下総の小金城の高城氏の軍事力は豊臣側が作成した「関東八州諸城覚書」では700騎と記されているが、実際には城主の高城胤則ら大半が小田原城に籠城し、小金城が包囲された時に残されたのは200騎と軽卒300名であったとされる(「小金城主高城家之由来」 )。

   箕輪城などは北条氏としては決して失いたくない重要拠点ではあったが、豊臣方の大軍勢と周辺諸城が続々と陥落していく状況を見た城兵によるクーデターが発生し、主将の垪和氏が追放されて無血開城している。

   決して北条方が弱かったわけではなく、ある程度の兵士が確保されていた鉢形城館林城、主将が指揮を執った前出の松井田城、東海道方面でも城主が守将となった伊豆方面の韮山城などは豊臣方も攻め倦み、それらの城では進撃の速度は大幅に落ちている。

   また、先に降伏した北条氏勝山中城を脱出し、玉縄城で降伏)や大道寺政繁ら元北条方の諸将による降伏開城の説得交渉に応じた城もあり、さらに彼ら降将による各城の案内、具体的に言えば城の弱点のリーク、という情報的有利さも影響している。

   岩槻城(岩付城)

   天正18年(1590年)5月19日から22日まで続いた。

Ø  岩付城攻撃軍の編成 計20,000人・浅野長政 約3,000人・本多忠勝など

   岩槻城守備軍(北条氏房(太田氏房)の配下。宿老の伊達房実など) 約2,000人

Ø  氏房の留守軍