9「南朝への帰順

後醍醐天皇と足利尊氏の戦い建武の乱は尊氏が勝利して室町幕府を開き、後醍醐は京へ投降した。

   ◯建武の乱(けんむのらん)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、建武2年11月19日(1336年1月2日)から延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)にかけて、後醍醐天皇の建武政権と足利尊氏ら足利氏との間で行われた一連の戦いの総称。

   延元の乱(えんげんのらん)とも。広義には、中先代の乱など建武政権期に発生した他の騒乱も含まれる。足利方が勝利して建武政権は崩壊し、室町幕府が成立した。一方、後醍醐天皇も和睦の直後に吉野に逃れて新たな朝廷を創立し(南朝)、幕府が擁立した北朝との間で南北朝の内乱が開始した。

   前史

   後醍醐天皇は大覚寺統と持明院統、更に自己の系統と実兄後二条天皇の系統(後の木寺宮・花町宮)との決着をつけるべく、倒幕運動を起こし、一度は事敗れて隠岐島に流されたものの、楠木正成や新田義貞、そして足利高氏(後の尊氏)の活躍で、元弘3年(1333年)遂に鎌倉幕府は滅亡し、幕府が立てた光厳天皇を排除して京都に復帰した(元弘の乱)。

   鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政と呼ばれる新政治を開始した。足利高氏は倒幕に参加した武家の中でももっとも名門でこれに従う武士も多かった。そこで天皇は高氏を倒幕の勲功第一として、従四位下に叙されて鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、また武蔵国・下総国・常陸国の3つの知行国及び30箇所の所領を与えられた。

   さらに天皇の諱尊治から偏諱を受け尊氏と改名した。だが、尊氏自身は新政権(建武政権)において、弟の足利直義を成良親王の補佐として鎌倉に派遣し、足利家の執事である高師直やその弟師泰ら主だった重臣たちは参加させたものの、自身は入る事は無かった。

   このため、尊氏が新政権と距離を置いているという見方が広がり、世人はこれを「尊氏なし」と称した。これに危機感を抱いた護良親王は、尊氏の排除を計画するが、建武元年(1334年)には父・後醍醐天皇の命令で逮捕され、鎌倉の直義に身柄を預けられて幽閉の身となった。

   建武政権は後醍醐天皇の情熱とは反対に混乱をきわめ、人々の反発を高めた。そんな中の建武2年(1335年)、前関東申次西園寺公宗と北条氏残党による天皇暗殺の企てが発覚し、続いて信濃国で北条高時の遺児時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が発生する。

   これを迎え撃とうとした直義はこれを防げずに護良親王を秘かに殺害した上で鎌倉を逃れ、時行軍は鎌倉に入る。尊氏は直義を救うべく鎌倉に向かおうとするが、後醍醐天皇に自らの征夷大将軍就任を奏請してこれが認められないと、8月2日に勅許を待たずに軍を発して直義の残兵と合流、途中で時行の軍を破って、同月19日には鎌倉を回復した。

   尊氏は直義の勧めに従いそのまま鎌倉に本拠を置き、独自の武家政権創始の動きを見せはじめた。同年11月18日、尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請[1]

   しかし翌日11月19日(1336年1月2日)、後醍醐天皇は、逆に一連の尊氏側の動きを反逆とみなし、義貞に尊良親王をともなわせて東海道を下らせ尊氏討伐を命じ、ここに建武の乱が開始した[2]。東山道からは洞院実世による追討軍が鎌倉に向かい、奥州の北畠顕家にも同様の命令を発した。尊氏は、一度は天皇の赦免を求めて浄光明寺に籠って隠退を宣言するが、直義・高師直ら足利軍が各地で劣勢となると、彼ら一族一党を救うため天皇に叛旗を翻すことを決意する。

   経過

   建武2年12月10日、足利尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り、京都へ進軍を始めた。この頃より、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、新田義貞討伐の院宣を得ようと画策する。

   これは叛乱の汚名を逃れて、自己の挙兵の正統性を得る行為であったことは、『太平記』・『梅松論』など諸書の一致した見方である。建武3年1月11日、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇はその前日に比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から尊氏を追いかけて上洛する形となった北畠顕家と行軍の遅れと箱根の戦況を聞いて京都へ撤退途中であった東山道の尊氏討伐軍、比叡山を守る楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。

   園城寺にいた足利軍を駆逐した新田・北畠軍は1月27日から30日にかけて京都とその周辺で攻勢をかけた。1月30日の戦いで敗れた尊氏は丹波国篠村八幡宮に撤退、続いて2月2日に摂津国兵庫に移動して西国の援軍を得て京都奪還を図るが、2月11日に摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は兵庫から播磨国室津に退き、赤松則村(円心)の進言を容れて更に九州に下った。

   九州への西下途上、2月20日に長門国赤間関において九州の有力武将の1人である少弐頼尚に迎えられ、九州に入ると筑前国宗像大社の宗像氏範や豊後国の大友氏泰などもこれに加わった。この間に京都では元号を「延元」と改めたが、尊氏はこれを認めず依然として「建武」の元号を用いた。3月2日、筑前多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏を破り、九州各地の天皇方を攻略した尊氏は京都に向かう決意を固め、4月3日に博多を出発、5月3日厳島にて光厳上皇の使者である三宝院賢俊から院宣を拝受した。5月5日に鞆に着く頃には院宣拝受の知らせを聞きつけた西国の武士を急速に傘下に集めていった。

   ここで軍議を開いた尊氏は直義に陸路で赤松円心が新田義貞に対して籠城を続けている播磨国白旗城に駆けつけるように命じ、自らは海路で京都に向かうことになった。5月18日には直義軍接近を知った新田義貞が白旗城の包囲を解いて兵庫に撤退した。