南北朝の内乱

   金ヶ崎城攻防戦と落城

   金ヶ崎城は義貞入城後、まもなく足利軍の攻撃を受ける。金ヶ崎を出発した義顕と脇屋義助だが、瓜生保が、足利尊氏が出した偽の綸旨に騙されて、足利側に転じていた。

   保の弟達(義鑑、瓜生重、瓜生照)が、このことを義助に知らせたため、義助、義顕は瓜生勢の加勢を諦めて金ヶ崎城へ引き返した。この際、義助は脇屋義治を瓜生三兄弟に預けて保護を頼んでいる。また、瓜生保離反を知らされたことによって軍勢は動揺し脱走者が続出、金ヶ崎城出発時には3000騎いた義助、義顕の軍勢は最終的に16騎にまで減ってしまった。さらに、金ヶ崎城にまで引き返すと、すでに城は斯波高経らの軍勢に包囲されていた。栗生顕友が献策した奇襲によって、義助、義顕らは16騎で敵中へ突入して金ヶ崎城へ帰還することに成功した。

   またこの際、義貞も味方が奇襲をしかけたことを即座に察知して、城内から800騎の手勢を差し向けて斯波軍を撹乱させ、奇襲成功に貢献した[172]。この時の斯波高経の軍勢は寄せ集めの烏合の衆であり統率を欠いていたため、義助、義顕の奇襲に慌てふためき同士討ちまでした末に四散して逃走していった。

   一度は足利軍を迎撃した義貞達には、つかの間の休息があった。10月20日、尊良、恒良両親王、義貞、義助、洞院実世らは、敦賀湾に船を浮かべ雪見をした。親王や各々の公家、武将達が得意とする楽器を奏でたと言われ、義貞は横笛を奏でた。

   敗北した足利軍は再度軍勢を束ねて、1337年(延元2年)1月18日に金ヶ崎を攻めた。高師泰を総大将とし、斯波高経の他に、仁木頼章、小笠原貞宗、今川頼貞、細川頼春ら6万の大軍を差し向け、さらに海上にも水軍を派遣して四方から金ヶ崎を包囲した。足利軍は総攻撃を仕掛けるが、最初は義貞達が優位な形勢にあった。さらに、一度は足利についた瓜生保が翻意して義貞に味方した。金ヶ崎城を包囲していた斯波高経の軍勢は、義貞と瓜生保に挟まれてしまうこととなった。さらに足利軍へ兵糧を補給する中継地であった新善光寺城を瓜生保が陥落させることに成功した。

   しかし、金ヶ崎城の兵糧は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われた。『太平記』は「死人の肉すら食べた」、『梅松論』は「兵糧がつきた後は馬を殺して食糧にした」「城兵達は飢えから『生きながらにして鬼となった』」と、その凄惨さを叙述している。1月12日に瓜生保とその弟達、里見時義らが、杣山城から兵糧を金ヶ崎城へ運び込もうと向かったが、足利軍に察知されて今川頼貞に迎撃され壊滅、瓜生兄弟、里見時義らは戦死した。

   二月には、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助を初めとする諸将と連携して足利軍を挟撃した。しかし、風雪の激しさからか、同時に挟撃することができなかった。この間、義貞は越後の南保重貞に救援の要請を出していたようであり、2月21日に重貞から義貞の元へ注進状が送られている。

   3月5日から足利軍による最後の攻撃が行われ、翌6日に金ヶ崎城は陥落する。落城に際して、義顕や尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。義貞は、前日の夜に洞院実世らとともに脱出したと『太平記』には書かれているが、激戦の中、二人の親王を置いたまま脱出したことについては、義貞が本当にそのような行動を取ったのか、真偽を疑われている。また、義貞は金ヶ崎城と杣山城を往復して指揮を取っていたとも言われており、2月に金ヶ崎城を出て、杣山城にいる間に金ヶ崎城が落城してしまったのではないかという見解もある。いずれにせよ、義貞が落城の折難を逃れて生き延びたことは事実であった。

   北畠顕家との連携失敗

   足利尊氏が落城直後の3月7日に一色範氏と島津貞久に充てた御教書には、義貞以下悉く、新田勢を誅伐した、という記述がある。尊氏は、義貞をこの戦で討ち取ったと思い込んでいたが程なくして、義貞が生き延びたことを知った。越前の南朝勢力への攻撃は以前と比べると激しくなくなり、新田一族が再び勢いをつけてゆくことになる。

   尊氏は、南朝勢力の内、義貞や彼が奉じた二人の親王のいる越前に最も兵力を割いていたが、これは二人の親王を奉じてさらに多数の公家を随伴させている義貞の勢力が、自分に敵対する政治勢力として規模が大きく、京都に近い越前を根拠地としていることも合わさり、南朝の勢力の中でもっとも脅威になると尊氏の目に映っていたからだと考えられている。

   しかし、金ヶ崎城が陥落し、二人の親王がそれぞれ自害、あるいは捕虜となり、義貞と離れたことで、この脅威が払拭され、越前攻めの勢いは衰えた。

   3月14日、義貞は佐々木忠枝を越後守護代に任命する。金ヶ崎城を失った義貞は杣山城を拠点とし、四散していた新田軍を糾合して足利に対抗する。弟義助は、越前国三嶺城を拠点とし、足利軍を牽制した。

   8月になると、奥州の北畠顕家が上洛の途につく。途中、義貞の次男新田義興と、南朝に帰参した北条時行がこれに合流する。翌延元三年、顕家は上杉憲顕などを退け、西へ破竹の勢いで進軍した。

   後醍醐天皇は各地の南朝勢力に対し、顕家の挙兵に呼応して決起するよう促した。杣山城の義貞は、2月に斯波高経を鯖江で破り、越前国府の攻略に成功する。『太平記』ではこの報が越前中に伝わると、足利方の出城73が降伏を申し出たという。また、伊予の大舘氏明、丹波の江田行義らも呼応して決起し、京都の足利軍を包囲して一斉攻撃により殲滅するという構想であった。

   しかし、義貞、顕家らが円滑に連携することはできなかった。1月に青野原の戦いで土岐頼遠、高師冬らに快勝した顕家は、進路を転じて伊勢を経由して奈良へと向かった。その後は苦戦が続き、最終的に顕家は5月に和泉堺浦・石津で足利軍に敗北、戦死した(石津の戦い)。

『太平記』は、顕家が伊勢ではなく越前に向かい義貞と合流すれば勝機はあった、越前に合流しなかったのは、顕家が義貞に手柄を取られてしまうことを嫌がったからだと記述している。佐藤進一は、顕家、その父北畠親房ともに貴族意識が強く、武士に否定的であったため義貞と合流することを嫌った、また、この時北畠軍の中にいた北条時行にとって義貞は一族の仇であり、彼が合流に強く反対したため合流が果たせなかったと解釈した