8「新説における影響」

一方で、21世紀初頭に進められている新説では、後醍醐天皇は後の室町幕府の法体系にも繋がる優れた法制改革を行い、武家への待遇も手厚かったとされており、呉座勇一によれば、建武政権の崩壊が必然だったとは考えられないという。

建武政権が崩壊した理由の一つとして、亀田俊和は、後醍醐の法整備は短期的な成果を目指すものではなく、長期的な改善を促すものだったため、方向性としては正しかったものの、効果が当事者たちの目に見えるまで時間がかかったことや、後醍醐が恩賞の裁定の公平性を重視した余り、恩賞給付に遅れが生じたことを述べている。

また、亀田はもう一つの理由として、後醍醐の中宮(正妃)である珣子内親王(新室町院)の出産結果という偶発的事象からの連鎖的事態を指摘している。

三浦龍昭・亀田によれば、後醍醐は傍若無人な人間であったとする通説とは異なり、実際には政敵である持明院統(後の北朝)の光厳上皇の姉で西園寺公宗の従妹でもある珣子を中宮に迎え、逆に光厳に自身の娘である懽子内親王を嫁がせるなど、婚姻政策を通じて持明院統や西園寺家に対し一定の懐柔政策を行っていたという。

珣子が懐妊した際、後醍醐は史上最大規模の御産祈祷を開催しており、亀田の推測によれば、後醍醐は珣子との皇子が未来の天皇となり、大覚寺統(後醍醐の皇統)と持明院統・西園寺家の間の友好関係の橋渡しになることを期待していたのではないか、という。しかし、珣子に生まれたのは皇位を継ぐことができない皇女だった[30]。珣子の従兄の公宗が後醍醐暗殺計画を起こすのはこの3か月後であり、さらにその直後に時行によって中先代の乱が発生したのである。

中先代の乱から建武の乱が生じた理由について、呉座や亀田によれば、尊氏が中先代の乱への出陣の際に征夷大将軍の位を要求したり、その後に独自に恩賞を配布したのは、新たな武家政権を樹立する意図があったのではなく、あくまで時行と北条与党の鎮圧を万全にするためのものだったのではないか、という。

ここに、尊氏謀反の噂が京で流れ、後醍醐は使者を派遣して真意を問い質したものの、足利方からの返答が不明瞭だったのもあって、尊氏が謀反人であると誤認したのではないか、という。

森茂暁もまた尊氏に謀反の意図はなかったとする。一方で、森によれば、一次史料である軍勢催促状のみを見る限り、初期の対立関係はどちらかといえば新田義貞と足利直義の間で発生しているように思われ、両人の上官である後醍醐と尊氏同士はぎりぎりまで戦争を回避しようとした形跡が見られるという。その理由として、後醍醐と尊氏の間には元弘の乱で苦難を共にした戦友としての信頼感があったのではないか、という。ここに、直義が義貞誅伐を呼びかけた軍勢催促状を入手するに及んで、後醍醐は開戦を決断せざるを得なかったのではないか、という。

   ◯新田 義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将。姓名は源 義貞(みなもと の よしさだ)。河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁。父は新田朝氏、母は不詳(諸説あり、朝氏の項を参照)。官位は正四位下、左近衛中将。明治15年(1882年)8月7日贈正一位。

   上野国新田荘の御家人であったが、元弘の乱(1331年 – 1333年)では後醍醐天皇に呼応して、足利高氏の名代・足利千寿王(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉討伐軍に参加する。義貞の軍はいち早く鎌倉に侵攻し、東勝寺合戦で鎌倉幕府・北条得宗家の本隊を滅ぼすという軍功を立てた。

   後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏と後醍醐天皇との間で建武の乱が発生すると、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命される。

   各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。東国の一御家人から始まり、鎌倉幕府を滅ぼして中央へと進出し、その功績から来る重圧に耐えながらも南朝の総大将として忠節を尽くし続けた生涯だった。

   軍記物語『太平記』等でその活躍が描かれ、楠木正成に次ぐ南朝の武将として顕彰された。

   元弘の乱以前

   新田義貞は新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏の嫡男として生まれた。義貞の生年については判然としていない。藤島で戦死した際、37歳から40歳であったといわれ、生年は正安3年(1301年)前後と考えられている 。辻善之助は37歳没、峰岸純夫は弟・脇屋義助との関係から39歳没説を採用している。

   また、『新田正伝記』、『新田族譜』、『里見系図』などの史料は、義貞が同族の里見氏からの養子であることを示唆している。義貞養子説は有力な見解とされているが、十全な確実性には欠けている。

   義貞が生まれた鎌倉末期までの新田氏は、清和源氏たる河内源氏の一流であったものの、頼朝の時代から近親として優遇され、北条氏と婚姻関係を結んできた名門としてその名を全国に知られた足利氏に比べ、名声も官位も領地の規模や幕府内の地位もはるかに劣ったばかりでなく、その差は広がるばかりであった(後述)。

   ただし、対立していたわけではなく、鎌倉時代を通して婚姻関係もあり、また、失態の処理の融通などから後期には新田家は足利家に対して従属関係にあり、建武の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある]。また、近年では「新田氏本宗家」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』によって作り出されたフィクションであり、新田家は創設(初代新田義重)以来、足利家を宗家とする庶家の1つに過ぎなかったとする谷口雄太の見解も出されている。

   義貞の出生地には三つの説がある。