足利尊氏は時行征伐のため東国に向かう許可を後醍醐に要請し、さらに惣追捕使と征夷大将軍という官職を求めた。後醍醐はこれを退け、8月1日に征夷大将軍の地位を息子の成良親王に与えた。翌8月2日、尊氏は後醍醐からの公認を得ないまま軍勢を率いて東下したため、後醍醐は尊氏に征東将軍という官職を追認した。同日、後醍醐暗殺計画を企んだとして捕縛されていた公卿西園寺公宗が処刑された。

 

時行らは尊氏を迎え撃とうとしたが、出陣の直前に台風に見舞われたため、鎌倉大仏殿(高徳院)に避難した。ところがそのとき、大仏殿が倒壊し、500余人の兵が事故死した。8月9日、時行は尊氏と遠江国橋本(静岡県湖西市)で交戦したが敗北。以降、19日まで尊氏との戦いが続き、時行方は足利氏庶流今川氏の武将今川頼国を討ち取るなど奮戦をするも、結果としては連敗を重ね、鎌倉への後退を余儀なくされた。

そして、ついに時行は鎌倉にまで追い詰められ、同19日に諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子や安保道潭の子らは自害して果てた(『梅松論』)。軍記物語『太平記』は、このとき大御堂(勝長寿院)で頼重を含め43人の大名が自害したとしているが、『太平記』は数値にしばしば誇張表現がみられることに注意する必要がある。一方、時行自身は鎌倉脱出に成功し、落ち延びた。

時行が鎌倉を占領していたのはわずか20日ほどであるが、先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に位置し、武家の府である鎌倉の一時的とはいえ支配者となったことから、この時行らの軍事行動は「中先代の乱」と呼ばれる。

 

7「先代の乱の歴史的影響」

通説における影響

時行が起こした中先代の乱は、通説と新説の双方において、日本史に決定的影響を与えた戦いだった。すなわち、中先代の乱の直後に後醍醐天皇と足利尊氏の間で建武の乱という戦いが発生し、天皇が政治的実権を握っていた最後の全国的単独政権である建武政権の崩壊に繋がったことである。

   ◯中先代の乱(なかせんだいのらん)は、1335年(建武2年)7月、北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱。先代(北条氏)と後代(足利氏)との間にあって、一時的に鎌倉を支配したことから中先代の乱と呼ばれている。また、鎌倉支配が20日余りしか続かなかったことから、廿日先代(はつかせんだい)の異名もある。

   鎌倉幕府滅亡後、建武の新政により、鎌倉には、後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置された。しかし建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していた。北条氏が守護を務めていた信濃国もその1つで、千曲川(信濃川)周辺ではたびたび蜂起が繰り返され、足利方の守護小笠原貞宗らが鎮圧にあたっていた。

   1335年(建武2年)6月には、鎌倉時代に関東申次を務め、北条氏と繋がりがあった公家の西園寺公宗らが京都に潜伏していた北条高時の弟北条泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を擁立して政権転覆を企てた陰謀が発覚する。公宗らは後醍醐天皇の暗殺に失敗して誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかけた。

   信濃に潜伏していた時行は、御内人であった諏訪頼重や滋野氏らに擁立されて挙兵した(『梅松論』)。時行の信濃挙兵に応じて北陸では北条一族の名越時兼が挙兵する。時行勢の保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎らは青沼合戦において守護小笠原貞宗を襲撃し、この間に諏訪氏・滋野氏らは信濃国衙を焼き討ち襲撃して、建武政権が任命した公家の国司(清原真人某)を自害させる(『太平記』)。

   ところが、京都の建武政権は当初、反乱軍が時行を擁しているとの情報を掴んでいなかったらしく、京都では反乱軍は木曽路から尾張国に抜け、最終的には政権のある京都へと向かうと予想(『梅松論』)したために鎌倉将軍府への連絡が遅れ、それが後の鎌倉陥落につながったとみられている。

   勢いに乗った時行軍は武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍する。7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を、小手指ヶ原(同県所沢市)で今川範満の軍を、武蔵府中で救援に駆けつけた下野国守護小山秀朝の軍を打ち破り、これらを自害あるいは討死させた。

   続いて、井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破る。直義は尊氏の子の幼い足利義詮や、後醍醐天皇の皇子成良親王らを連れて鎌倉を逃れる。鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている(7月23日)。

   鎌倉に護良を将軍・時行を執権とする鎌倉幕府が再興され建武政権に対抗する存在になることを恐れていたからと考えられている。24日は鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)にて鎌倉将軍府側は最後の抵抗を試みるが佐竹義直(佐竹貞義の子)らが戦死、翌25日に時行は鎌倉に入り、一時的に支配する。更に時行勢は逃げる直義を駿河国手越河原で撃破した。直義は8月2日に三河国矢作に拠点を構え、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還している。

   時行勢の侵攻を知らされた建武政権では、足利尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請するが、後醍醐天皇は要請を拒否する。8月2日尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与える。