新政の瓦解

   建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。

   鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。

   この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた。

   尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど新政から離反する。尊氏は、天皇から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた武者所所司(長官)の新田義貞を君側の奸であると主張し、その討伐を後醍醐天皇に対して要請する。

   後醍醐天皇は尊氏のこの要請を拒絶し、11月に義貞に尊氏追討を命じて出陣させるが、新田軍は建武2年(1335年)12月、箱根・竹ノ下の戦いで敗北する。建武3年(1336年)1月に足利軍は入京する。後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から西上した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて楠木正成ら宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京した。このため新政は2年半で瓦解した。

   同月、後醍醐帝は新田義貞ら多くの武士や公家を伴い、再び比叡山に入山して戦いを続けると、入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ北朝が成立する。9月、後醍醐天皇は皇子の懐良親王を征西大将軍に任じて九州へ派遣。兵糧もつき、周囲を足利方の大軍勢に包囲されると、10月には比叡山を降りて足利方と和睦。和睦に反対した義貞に恒良・尊良親王を奉じさせて北陸へ下らせると後醍醐帝は光明天皇に三種の神器を渡し、花山院に幽閉される。後醍醐帝は12月に京都を脱出して吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させると、先に光明天皇に渡した神器は偽器であり自分が正統な天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝時代が到来。1392年(元中9年/明徳3年)の明徳の和約による南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続いた。

   新政の瓦解後

   詳細は「室町幕府」を参照

   新政の瓦解後、足利尊氏が光明天皇によって征夷大将軍に任じられ、室町幕府が開かれた。初期には南北朝時代の戦乱が続き、15世紀以降になると戦国時代となって京都周辺以外の実効支配力を失うものの、1573年に織田信長によって足利義昭が京都から追放されるまで、足利氏の15代に渡る武家政権が続いた。

 

少なくとも奥州北部・北九州・南関東・日向・紀伊・長門・伊予・京の8か所で北条氏による乱が発生した。 これらの乱の特徴として、乱が発生した国が、鎌倉幕府で北条氏が守護職に任じられていたこと(日向・越後・紀伊・信濃・長門)、あるいは旧領であったこと(陸奥)があげられる。日本史研究者の鈴木由美の指摘によれば、それぞれの北条氏の武将が乱を主導したのではなく、建武政権に不満を持つ在地の武士たちが旗頭として北条氏を担ぎ上げたという面が大きいのではないか、としている。

また、建武の新政においては、戦前からの伝統的通説・21世紀初頭の新説ともに後醍醐天皇は北条与党に対しては冷淡であり、北条氏への忠誠が強かった氏族(斎藤氏や松田氏など)は少数の例外を除き新政の中枢機関にほぼ用いられなかったと考えられている。