また6月14日、篠原長房率いる阿波讃岐の1万5千兵が兵庫に上陸した。6月24日、三人衆はここに至り、遺言で秘されてあった長慶の死を世間に公表すると、三好氏の新当主に据えた義継を喪主とする葬儀真観寺で営んだ。ここから三人衆軍の久秀討伐に向けた攻撃が始まる。

   上記2ヶ月に亘る軍事行動によって山城、摂津を統治下に置いた三人衆は、新たな征夷大将軍としようと画策する足利義栄を9月23日に越水城へ入城させ、12月7日には普門寺城へ入城させている。

   転機

   翌永禄10年4月6日(1567年5月24日)、松永久秀がいる信貴山城に三好義継が保護を求めてきた。

   三好氏の当主という地位は、劣勢下にあった久秀に大義名分を与えるだけの効果を保持していただけに、久秀は当時16歳であった義継を迎え入れた。

   戦いの状況[編集]

   「永禄の変#南都焼討(戦国時代)」も参照

   布陣

   この動きを察知した筒井順慶は戦闘準備を整えるため、急ぎ筒井城の防備を固めた。同年4月11日、義継を擁する久秀は信貴山城から多聞山城に移動した。

   その間、義継が久秀に寝返ったことに激怒した三人衆は大和へ入国。4月18日に三人衆軍と筒井軍は連合軍となって奈良周辺に出陣し、大和の情勢は一挙に緊張状態が高まっていった。この時の三人衆・筒井連合軍の兵力は『多聞院日記』によると1万余り、『東大寺雑集録』によると2万兵にもなっていたと記載されている。

   三人衆・筒井連合軍は広芝、大安寺白毫寺に布陣した。これに対して松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に軍を進めた。

   4月24日、更に三人衆・筒井連合軍は天満山、大乗院山に軍を進め間合いを詰め、この日の夕刻より戦闘が開始された。

   東大寺の南大門周辺で両軍の銃撃戦が繰り広げられ、真夜中になっても銃声が衰えることはなかった。

   その後前線部隊の小規模な戦闘があったが、多聞山城との間合いを詰めるべく、三人衆は東大寺に陣を進めたいと考えていた。

   これに対して順慶は当初反対していたが、こう着状態を避けるべく興福寺を通じて東大寺への布陣の許可を申し出た。

   これに対して寺側は積極的に許可した。これは順慶自身が興福寺側であったことと、松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に許しを得ず布陣しており、多聞山城の築城以降、久秀に対して寺領が侵されるなど不満が高まっていたと指摘されている[1]

   同年5月2日、許しを得た三人衆の1人岩成友通隊は1万兵で東大寺へ軍を進め布陣した。これに対して松永軍も戒壇院の防備を固め立て篭もった。

   両軍はかなり接近した位置に対峙することになる。この時の状況を「大天魔の所為と見たり」(『多聞院日記』)と悲観し、かなりの緊張状態になったことが伺える。

   5月15日、足利義栄を普門寺城で警護軍として駐屯していた篠原長房、池田勝正連合軍は8千兵で大和に入国、5月17日に西方寺に布陣し、これに即応した三人衆の1人三好政康隊が兵8千を引き連れて西ノ坂へ陣変えし、また岩成友通隊は氷室山法雲院の背後に布陣し、筒井軍は引き続き大乗院山に陣取り、東大寺南側を警戒し多聞山城への出入りを封鎖する策に出たと思われている。

   前哨戦

   池田軍は着陣した翌5月18日、宿院城を攻城した。勝正は宿院城を抑えると興福寺の寺領を侵さずに北へ真っ直ぐ攻め上ることが可能になるため、重要な拠点と考えたと思われている。

   しかし松永軍もここを重要な拠点と考えていたのか頑強に防御し、逆に池田軍は多くの兵を失い西方寺に退却した。

   一応この日の戦いでは勝利した松永軍であったが、多聞山城の間際まで攻め込まれたことに危機感を覚え、陣地として使用できそうな

   般若寺・文殊堂・仏餉堂・妙光院・観音院

   等を焼き払った。5月23日、池田軍は多聞山城の背後にある大豆山に陣をひいたが翌5月24日に松永軍に撃退されて再び西方寺に退却した。この時も松永軍は宝徳院・妙音院・徳蔵院・金蔵院・等を焼き尽くした。

   同年8月25日、久秀の援軍要請をうけ、畠山高政が率いる根来衆が再び出軍し、三人衆軍に属していた飯盛山城の城主松山安芸守が裏切り畠山軍に加勢した。

   9月上旬頃、畠山軍が紀ノ川沿いに大和に入国してきたが、これに対して岩成友通、篠原長房連合軍が迎撃にあたり紀伊に撃退した。

   しかし、飯盛山城は未だ松永軍に属しており、背後から攻撃されることを避けるためそのまま河内に兵2千をすすめ、飯盛山城を攻囲した。

   多聞山城や飯盛山城の周辺で戦いが続いている中、寺社から久秀へ音物(いんもつ)が届けられるようになる。