劣勢にあった松永軍は奇策に出た。「松永霜台いかなる事やらん、和州多聞城を出」(『細川両家記』)とあるように、久秀は同年5月19日に多聞山城を出立し摂津の国人衆や畠山高政軍と合流し、三人衆の畿内の本拠地であるを6千の兵で包囲した。

   しかし三人軍の動きも素早く松永軍の後を追って、1万5千余の兵で松永軍を逆に包囲した。久秀は会合衆に仲介を申し出、和議を取り付けた。

   戦いの状況

   この和議を結んでいる最中に、堺に出兵していたため手薄になっていた筒井城を筒井軍が攻撃した。

   まず筒井軍は筒井城の周りを取り囲んでいた陣所を襲い、これを焼き払った後に筒井城を攻め立て、同年6月8日に筒井城は落城し順慶の手に戻った。これ以降筒井城は松永軍の攻撃への要の城として使用されていくことになる。

   この戦いは三人衆軍は堺に出向いていたため筒井軍が単独で奪回したものと思われている。頻繁に松永軍が補給したのにもかかわらず、攻城戦にあたって筒井軍に大きな損害が出なかった理由として、「堺表の敗北から完全に立ち直っていなかったことと、もうひとつには、阿波にあった三好家の被官篠原長房が摂津兵庫に上陸するべく軍勢をととのえていたために、その対策に迫られた久秀には、腰を据えて筒井城を守り抜くゆとりがなかったからである」と指摘されている。
第八次筒井城の戦い

   開戦までの状況

   その後三好三人衆は、黙していた三好長慶の死を世間に公開し、摂津、山城の各諸城を落城させていく。劣勢になっていた松永久秀に翌永禄10年(1567年)4月6日、三好義継らが保護を求め、金山某、三好康長、安見宗房らも同調したようである。これにより松永軍は活気づき、逆に激怒した三好三人衆は再び大和に入国し、筒井軍と連携し多聞山城を攻撃する。

   この多聞山城を攻城しているさなかの同年9月28日、筒井順慶は春日大社を詣でた。この時、宗慶権大僧都を戒師として得し、筒井藤政から改名し「筒井陽舜房順慶」と名乗り、正式に興福寺衆徒となった。18歳であった。

   その後東大寺大仏殿の戦いとなり、勝利した松永軍であったが、三人衆・筒井連合軍と断続的な交戦状態にあった。

   翌永禄11年(1568年)6月29日、信貴山城の戦いで信貴山城が落城すると、同年9月2日、山城木津城にいた三人衆の1人三好政康が兵3千で大和に侵攻し、それに筒井軍が応じ多聞山城を攻撃し、松永軍は再び窮地に立つことになる。

   この久秀を助けたのが、観音寺城の戦いで勝利し同年9月26日に上洛を果たしたばかりの織田信長である。

   この時に久秀は京都にいる信長に質子を入れ恭順の意を示す。その後織田軍は、三人衆の1人岩成友通勝竜寺城を同年9月28日、更には三好長逸芥川山城を同年9月30日に落城させると10日間ほど芥川山城に入った。

   この時の様子は、「門前二出仕ノ馬車市ヲナシ、耳目ヲ驚カス有様ナリ」(『足利季世記』)

   とあり、数多くの諸将の来訪があり信長へ味方したようである。その中に松永久秀・久通父子と三好義継の姿もあった。

   3人は10月4日に芥川山城で信長に拝謁し、信長は義継には河内上半国守護若江城畠山高政には河内下半国守護を与え、松永父子には「手柄次第切取ヘシ」と大和を武力で奪い取るよう命じた。同日、筒井軍の与力衆も信長に同行していた足利義昭に拝謁し、織田軍に属することを求めたようだが、こちらは拒否されたようである。

   戦いの状況

   信長は細川藤孝佐久間信盛和田惟政ら2万の援軍の約束をし、久秀は再び大和に帰国し攻勢に出た。六角氏や三人衆をことごとく破っていた織田軍の軍事力は圧倒的と見たのか、筒井軍を見限って松永軍に合力する者もいた。

   代表格は菅田備前守で、第六次筒井城の戦いで既に寝返った箸尾高春らと共に同年9月25日、十市城を攻撃し放火して回った。それ以外にも郡山向井氏小泉秀元らも松永久秀に通じたようである。

   孤立した筒井軍に松永軍が攻撃したのは同年10月6日、攻城の先方を勤めたのは昨日まで筒井軍にいた郡山向井隊である。信長の援軍が到着する松永軍の士気は高いと思われている。まず城下の家々を焼き払った。

   城の間際まで焼き、筒井軍も防戦したが、次第に討ち取られていき、筒井城が落城したのは2日後の同年10月8日の夕刻であった。順慶は東山中の福住中定城に逃走した。

   戦後の状況

   織田軍の援軍が大和に入国したのは、2日後の同年10月10日に唐招提寺に陣を張ったと思われている。

   その後10月15日に豊田城が、11月15日に十市城が落城したのをはじめ、多くの大和の諸城やその城下が焼き討ちにあったり落城したりで大和は一旦久秀の手に落ちる事になる。

   しかし元亀2年(1571年)8月4日、辰市城の合戦で松永軍が敗北すると、明智光秀の仲介のもと織田軍への帰属が許され、順慶は筒井城に帰城できた。