2「筒井 順慶の出自」(つつい じゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。得度して順慶と称する前は、室町幕府13代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。大和筒井城主、後に大和国郡山城主。事績については『多聞院日記』に詳らかに記述されている。
出生から家督相続
筒井 順昭(つつい じゅんしょう)は、戦国時代の大和国の大名。筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒であった。筒井城を居城とする。
大和に勢力を持っていた越智氏に対抗するため、当時の畿内の実力者・木沢長政と結び、勢力を拡大する。木沢長政の死後は、その残存勢力を破って拡大し、袂を分かちあっていた十市遠忠と和すなど、大和一国をほぼ手中に収め、筒井氏の全盛期を作り上げた。
しかし1549年(天文18年)病を苦にして家臣数人を連れて突如、比叡山に隠居。天然痘・脳腫瘍を患っていたという説がある。
翌年に死去。嫡子の藤勝(順慶)はわずか2歳の幼子であったが、弟の順政、順国らが補佐し、大和支配を保った。
なお、順昭の供養塔である五輪塔(重要文化財)が、奈良県生駒市の圓證寺にある。
元の木阿弥
順昭は死の間際に家臣を集め、子の順慶への忠誠を誓わせるとともに、敵を欺くため、自分と良く似ている木阿弥(もくあみ、黙阿弥とも)という奈良の盲目の僧を影武者に立て、3年間(資料によっては1年間、あるいは子の順慶が成人するまで)死を隠すことを命じた。
木阿弥は身代わりの間、贅沢な暮らしができたが、筒井家臣団が順慶の下で体制を整えなおした後に奈良へ帰され、元のただの僧の木阿弥に逆戻りした。このことから「元の木阿弥」という故事成句が生まれたといわれる。
Ø 筒井氏は興福寺一乗院に属する有力宗徒が武士化し、父親順昭の代には大和最大の武士団となり、筒井城を拠点に戦国大名化していた。
Ø 母は山田道安の娘・大方殿。
天文19年(1550年)、父が28歳で病死したため、叔父の筒井順政の後見の元、2歳で家督を継ぐこととなる。
Ø 当時の大和は「大和四家」と呼ばれる筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏や僧兵を擁した興福寺の勢力が強く守護職の存在しない国であったが、永禄2年(1559年)から三好長慶の寵臣である松永久秀が侵攻し、永禄5年(1562年)には筒井氏と協力関係にあった十市遠勝が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。
さらに永禄7年(1564年)には叔父の順政は死去してしまう。
Ø 翌永禄8年(1565年)8月、三好三人衆と松永久通の軍勢が将軍足利義輝を暗殺したが(永禄の変)、11月16日、松永久秀と三好三人衆は決裂してしまう。
Ø 松永久秀は急遽、後ろ盾を無くした順慶の基盤が揺らいでいる所に奇襲を仕掛け、同11月18日、順慶は居城・筒井城を追われている(筒井城の戦い)。