7「永正の錯乱と九州の政局」

Ø  そんな最中の明応8年12月30日(1500年1月30日)に諸国を亡命していた前将軍・足利義尹(明応7年(1498年)義材より改名)が義興を頼って山口に入った。

Ø  義尹は自らを現在でも現職の将軍であると主張して山口に自らの幕府を置き、義興も細川政元に対抗して義尹を擁して上洛しようとしていた。

   これに対して、足利義高・細川政元は大友親治・大内高弘・少弐資元(政資の3男)・菊地武運・阿蘇惟長らに義興討伐を命じるとともに、文亀元年閏6月9日(1501年7月23日)には後柏原天皇から義興討伐の綸旨を獲得した。

   こうして義興は「朝敵」ということになり、続いて将軍義高の御内書と奉行人奉書が出されて改めて西日本の大名・有力国人28名に義興討伐が命じられた。 

   文亀元年(1501年)閏6月20日、大友親治・少弐資元の軍勢が豊前国の要所であった馬ヶ岳城を攻める。神代与三兵衞尉や仁保護郷が戦うが、護郷は戦死し馬ヶ岳城は陥落する。

   だが7月23日に杉弘依が援軍として駆けつけ馬ヶ岳城を取り戻すことができた。 東では義興の討伐命令の受けていた安芸国の毛利弘元を味方に引き入れることに成功している。

Ø  間もなく、義興は足利義尹の仲介により大友親治と和睦し、永正4年(1507年)には少弐資元とも和睦し、北九州の勢力を保っている。

   天下人へ

Ø  義興は永正元年(1504年)頃から上洛の具体的な構想を描いて領国内で臨時の段銭徴収などを行っていたが、永正4年(1507年)6月、足利義澄を11代将軍に擁立して幕政を牛耳っていた細川政元が暗殺された(永正の錯乱)。

   永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は、永正4年(1507年)に室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏(細川京兆家)の家督継承をめぐる内訌である。

   背景には京兆家を支えてきた内衆などの畿内の勢力と政元の養子の一人細川澄元を擁する阿波の三好氏などとの対立があり、これに将軍足利義澄に対抗して復権を目指す前将軍足利義稙の動きも絡んでいた。

   複雑な情勢の推移を経て、政元の暗殺から1年後には畿内勢が支持する別の養子細川高国が家督に就き足利義稙が将軍に返り咲いたが、これに逐われた足利義澄・細川澄元・三好氏の勢力も巻き返しを図り、畿内において長期にわたって抗争が繰り返された(両細川の乱)。

   細川政元の3人の養子

   明応2年(1493年)、第27代室町幕府管領職に就いていた細川政元は第10代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を11代将軍に擁立した(明応の政変)。

   専制権力を樹立した政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていたために実子はおらず、兄弟もいなかったため細川京兆家には政元の後継者がなく、関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の3人を迎えて養子にしたため、分裂抗争の芽を胚胎することとなった。

   応仁の乱で諸大名家が跡継ぎ争いを起こし弱体化を招く中、細川家では勝元の後継者に養子の勝之を推す動きは一部であったものの、勝元の実子である政元が嫡男として継承することでまとまっており、その結果政元の時代には細川家は幕府の中での地位をより強固にすることができた。

   しかしその政元に血縁の近しい後継者がおらず、ここにきて他大名家よりも一代遅れで京兆家にも跡継ぎ争いが発生するに至ったのである。

   永正3年(1506年)、摂津守護となった澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰三好之長が政元に軍事面で重用されるようになると、これまで政元政権を支えてきた「内衆」とよばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。

   政元暗殺(細川殿の変)

   永正4年(1507年)6月23日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行のあった細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入ったところを、澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された(細川殿の変)。

   さらに翌日、長忠らは澄元・三好之長の屋敷に攻め寄せ、澄元らを近江に敗走させ、主君として澄之を迎えて細川京兆家の家督を継がせた。

   6月26日には、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた(養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になる)。

   しかしもう1人の養子・高国は、一族の摂津分郡守護細川政賢や淡路守護細川尚春、河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意をみた。なお、高国については政元の存命中に養子縁組が解消されて、実家である野州家を継承していたとする説も出されている。

   まず7月28日、薬師寺元一(弟・長忠に滅ぼされている)の子・万徳丸は長忠の居城茨木城を攻め落した。