11「信長横死後、秀吉に支援を求める」

   中国攻め - 戦局の推移

   羽柴秀吉の着陣 /天正5年

   天正5年(1577年)、前年に能登に進攻した上杉謙信は、この年の閏7月に能登七尾城石川県七尾市)を包囲した。

   信長は柴田勝家を大将にして、越前に所領をもつ前田利家佐々成政などに加えて滝川一益丹羽長秀、羽柴秀吉らの精鋭を北陸地方へ派遣した。この時、大和松永久秀が謙信や輝元、本願寺などの反信長勢力と呼応して、石山戦争から離脱して大和信貴山城奈良県生駒郡平群町)にたて籠もり、再び信長への対決姿勢を打ち出した。

   『信長公記』によれば、信長は松井友閑を派遣して理由を問い質そうとしたが、久秀は使者に会おうともしなかったという。

   信長は嫡子織田信忠を総大将に筒井順慶の兵を主力とした大軍を送り込み、10月に信貴山城を包囲させて久秀を自害させた。一方、秀吉は勝家と意見が合わず、手兵をまとめて戦線を離脱し、居城の長浜城滋賀県長浜市)に籠もったため、信長の逆鱗にふれたといわれる。

   中国戦線においては毛利氏の播磨侵攻が本格化しており、これに対し信長は北陸戦線から離脱して謹慎していた秀吉を指揮官に任じて中国攻めを開始した。

   秀吉は、天正4年7月の時点で信長より中国攻略を命じられていたが、そのときは作戦に専念できる状況になく、翌天正5年10月に、ようやく播磨に入ったのである。

   秀吉は、すでに信長方に服属していた小寺家の家老黒田孝高の姫路山城を本拠にして播磨・但馬を転戦した。

   但馬では岩洲城(兵庫県朝来市)、ついで竹田城(朝来市)を攻略し、竹田城に弟の羽柴秀長城代として入れた後播磨に引きあげた。

   もっとも、『信長公記』によれば、信長が秀吉に命じたのは播磨攻略で、但馬攻略については秀吉の独断であったとされている。

   播磨では、秀吉は国中を巡って信長の旗下に入るよう促し、置塩城の城主で旧守護家当主の赤松則房ほか国人衆の多くを調略によって降伏させて人質をとり、1か月ほどで西播磨全域をほぼ支配下においた。

   秀吉は播磨佐用郡を中国地方への前進基地として重要視し、竹中重治・孝高らを派遣して毛利方の福原助就を城主とする福原城(兵庫県佐用町)を攻略して陥落させた。

   西播磨の豪族のなかでも、備前・美作国境に近い上月城の赤松政範は、容易に秀吉になびかず、毛利氏と結んでいた備前の宇喜多直家との連携を強化した。そこで11月27日、秀吉は上月城に兵を進めて城の周囲に3重の垣を設け、攻守に備えた。

   これにより、赤松政範救援のために派遣された宇喜多勢を撃退し、12月3日に上月城を陥落させた(第一次上月城の戦い)。「西播磨殿」と呼ばれた政範はこの戦いで自害し、家老高島正澄も殉死した。秀吉は城兵の降伏を許さず、ことごとく首をはね、城内の子供も処刑した。

   その後、秀吉は山中幸盛に命じて上月城を守らせた。幸盛は勝久を奉じ、出雲・伯耆・因幡・美作などの牢人を率いて籠城した。

   この後、勝久と幸盛は宇喜多勢に攻められていったん撤退し、直家はこれを上月十郎景貞という人物に守らせたが再び秀吉軍によって落城し、景貞は敗走中に自刃したと伝わっている。

   こうして秀吉は、織田方と毛利・宇喜多方の緩衝地帯の要素の濃かった播磨一国をわずか2か月で手中に収めた。この年の年末に近江国に帰った秀吉は、播磨・但馬平定の褒賞として、主君信長より自慢の茶器「乙御前の釜」を賜っている。

   別所長治・荒木村重の離反 /天正6年

   天正6年(1578年)1月、毛利輝元は大軍を上月城に派遣した。毛利方では、先述のように3ルートからの上洛作戦を策定していたが、上月城奪還から播磨進攻が得策であると小早川隆景が提案し、山陰道担当の吉川元春も合意して合流した。4月15日には輝元自身が軍を率いて備中松山城(岡山県高梁市)に陣をかまえ、吉川元春・小早川隆景の両将は、18日に6万余の兵を率いて上月城を攻め、を設けて何重にも城を取り囲んだ。

   秀吉からの急報を受けた信長は、まず尼子救援のため摂津の荒木村重を送り、ついで滝川一益、明智光秀を増援して5月初旬にはみずからも出陣しようとしたが、佐久間信盛らに諫止され、ついで子息信忠・信雄信孝を派遣した。

   先発隊として村重が到着すると、秀吉は村重と共に上月城の東方・高倉山に陣をしいたが、地の利が悪い中で兵の数は約1万に過ぎず、毛利の大軍に歯が立たなかった。

   この間、秀吉も信忠らも別所長治離反(後述)のため撤退せざるをえなくなり、7月5日、半年にわたる毛利氏の攻略によって上月城が陥落した。これにより、信長と同盟を結んでいた尼子勝久・尼子氏久が自害、山中幸盛も捕らえられ、輝元の本営である備中松山城への護送中に処刑された(第二次上月城の戦い)。

   こうして、一時は中国地方に覇をとなえた大族尼子氏も再興の願いむなしく滅んだ。