鎌倉攻略

   5月8日、新田義貞上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。

   新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦い分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。

   新田軍は極楽寺坂巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。

   戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ヶ崎)から鎌倉へ突入した。執権北条守時(第16代執権)や北条基時(第13代執権)ら幕府要人が戦死・自害した市街戦ののち、生き残った得宗家当主北条高時(第14代執権)や北条貞顕(第15代執権)ら幕府の中枢の諸人総計800余人は5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した(東勝寺合戦)。

   九州

   同じ頃、鎮西探題北条英時も、少弐貞経大友貞宗島津貞久らに攻められて5月25日に博多で自刃した。

   後醍醐天皇は、北条高時の冥福を祈るため、建武2年(1335年)3月ごろ、腹心の足利尊氏に命じ、鎌倉の高時屋敷跡に宝戒寺を建立しようとした。

   その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、観応の擾乱(1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、円観を名義上の開山(二世の惟賢を実質的な開山)として、正平8年/文和2年(1353年)春ごろから造営を再開し、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂した。

   また、高時の遺児の北条時行中先代の乱で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち南北朝の内乱が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用している。

   後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。

   後醍醐天皇は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった中央集権政策である建武の新政を開始した。しかし、建武政権は、後醍醐天皇と足利尊氏の戦い建武の乱により、わずか3年で崩壊した。

   『太平記』史観や、それを受け継いだ1960年代の佐藤進一の説では、後醍醐天皇は独裁的暗君で、その政策は非現実的なものであり、また側近の公家ばかりを贔屓し、元弘の乱で功績のあった武士たちを冷遇したとされる。

   このことにより、足利尊氏は後醍醐への叛意を抱き、建武の乱で建武政権を滅ぼして室町幕府を創立したとされる。

   その一方、2000年前後から現れた新説では、後醍醐天皇の政治的手腕は再評価される傾向にあり、建武の新政の諸政策は、大覚寺統の法制と鎌倉幕府の法制を折衷した合理的な改革で、武士の実力も適切に認め多くの恩賞を与えたものだったとされる。

   足利尊氏は終生、後醍醐天皇に対し畏敬の念を抱き、後醍醐の諸改革は後継となる室町幕府に発展的に受け継がれたとする見解もある。

   名称

   この内乱に係わる用語としては、「元弘の乱」と「元弘の変」というものがある。

   『国史大辞典』「元弘の乱」(福田豊彦担当)は、元徳3年(元弘元年、1331年)の倒幕計画発覚から元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府崩壊と建武の新政発足までの戦乱全体を「元弘の乱」と呼ぶ。そして、「元弘の変」は「元弘の乱」に内包される事件であり、その始期と終期は、元弘の乱の勃発当初から、後醍醐天皇が捕らえられて強制譲位・隠岐配流されて近臣も処分されるまでを指す「場合が多い」としている。

   『国史大辞典』とおおよそ同様の区別を用いる日本中世史研究者には、森茂暁新井孝重生駒孝臣などがいる。

   一方、日本史以外の分野の文献では、『日本国語大辞典』第二版および『日本大百科全書』「元弘の変」(五味克夫担当)が、「元弘の変」を1331–1333年の戦乱全体に対する呼称(つまり「元弘の乱」と同義語)として用いている。

   始期・終期

   始期については、元弘の倒幕計画がいつから練られていたかが不明であるため、直ちに明確ではない。

   しかし、元徳3年4月29日1331年6月5日)に、吉田定房が謀反の企てを六波羅探題に密告し、この情報が関東に伝わったことで事件が表面化した。これを受け、鎌倉から長崎高貞南条高直らの二名の「追討使」が派遣され、軍事的な対立関係が発生した。したがって、この密告を起点として後に続く戦乱が語られる。

   終期については、以下の日が考えられる。