12「義満の最期」

Ø  義満は応永11年(1404年)末頃から「太上天皇」の尊号が贈られないかと朝廷に対して働きかけを行っていた。

Ø  応永13年(1406年)、後小松天皇の生母三条厳子が没すると、「天皇在位中に二度の諒闇は不吉」であるとして、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、義満は天皇の義父と言える存在となった。

Ø  この際、義満は関白一条経嗣から、義満への「尊号」が検討されるのではないかという話を聞き、上機嫌な姿を見せたという。

Ø  しかし康子は翌年「北山院」の女院号を贈られたものの、義満に太上天皇の尊号が贈られることはなかった。ただし、義満には出御した際に「三衣筥」が置かれる例など、これまで上皇・法皇にしか認められなかった先例が数多く義満に適用されている。

   応永15年(1408年)4月25日には出家予定であった子の義嗣を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。しかしその2日後の4月27日、義満は病に倒れた。

Ø  4月28日には見舞の人にも対面しなかった。4月29日、医師の坂士仏の治療により快方に向かったが、5月1日には悪化した。

Ø  このため、将軍の義持は山科教冬を遣いに送り、諸寺に義満快癒の祈祷を命じた。その他にも管領などにより義満快癒の様々な催しが行なわれている。

Ø  しかし5月4日に危篤となり、昼頃には一旦事切れたかに見えたが夕方になって蘇生した。

Ø  5月5日は平静を保ったが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した]。享年51(満49歳没)。

Ø  法名は鹿苑院天山道義。等持院で火葬された義満の遺骨は、相国寺塔頭鹿苑院に葬られた。以後相国寺は足利将軍の位牌を祀る牌所になったが、天明の大火で灰燼に帰して衰微した。

Ø  鹿苑院に至っては明治になってから廃仏毀釈のあおりで廃寺の憂き目に遭う。そのため義満の墓所はその正確な位置が不明となってしまったが、位牌は足利家と縁の深かった臨川寺に移され安置されている。

   死後

   義 満死去2日後、朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている。

   一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない[34]。また明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。

Ø  この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。

Ø  また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義満が偏愛した義嗣も上杉禅秀の乱の際に出奔し、謀反を企てたとして殺害された。

Ø  6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、嘉吉の乱赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。

Ø  孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。

Ø  また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。

   人物

   今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。

   佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。

Ø  このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。

Ø  義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。